荒川光のブログ

Hikaru Arakawa's blog

「TOPに戻る」ボタンは画面トップでは非表示にしておきたいよね

 

ブログのカスタマイズファンのみなさん、こんにちは。

日々カスタマイズを楽しんでいらっしゃることと思います。

今日はそんなみなさんに向けて「TOPに戻る」ボタンについて書いてみたいと思います。

 

 

 

実は私のこのブログにも設置しているんですよ。

画面の右下をご覧くださいませ。

 

あるでしょう? まるい可愛いボタンが。

デザインはイマイチかもしれませんがちゃんと機能します。

良かったら試しに押してみてください。

画面トップへと瞬時に飛んでいけますから。

 

「TOPに戻る」ボタンに潜む落とし穴とは

ところが私のこのボタンには、実は重大な欠点が存在するのです。

 

どんな欠点か気づいた方はいらっしゃいますか?

まぁ、いないでしょう。

もし気づいたというあなたは群を抜いた観察力の持ち主です。

 

ではその欠点をここに告白いたしましょう。

このボタンは「画面トップ」を表示している時でも消えずに存在しているのです。

 

もっと分かりやすく言いましょう。

「TOPに戻る」ボタンは文字通り画面の一番上に移動するためのボタンです。

ですので現在すでに画面トップを表示中であるならば存在する必要のないボタンなのです。

 

画面トップを見ているにもかかわらすこのボタンが表示されていたら「ここが画面トップではなくまだ上があるのかな」と勘違いしてしまうかもしれません。

それはユーザーに誤解を与え、誤クリックを誘発する詐欺的サイトであるという評価がなされないともかぎりません。

 

子供が一人しかいないのに「ウチの長男が」などと言う人がいたらどう思いますか?

下の子もいるんだなと誤解しませんか?

それと同じです(ちょっと違うか)。

 

普通は記事が表示されるとすぐに読み進めることでしょう。

読む前に右下の隅に目を走らせて「TOPに戻る」ボタンが出ているかどうかをチェックするなんていう人はいませんよね。

ですのでこの欠点に気づかれる心配はしていません。

しかし私の美意識はそれを良しとしないのです。

気づかれないから良いというものではありません。

 

 

 

他の人のサイトで、画面のトップでありながら「TOPに戻る」ボタンが表示されているものをごく稀に見かけることがあります。

「あっ、同類がいた」と親近感を覚えますね。

コメント欄などから「改善されてはいかがでしょうか?」とお伝えしようかと思うこともあるのですが、実際にしたことはありません。

余計なお世話でしょうし、私自身のサイトがその状態なのですから「お前が先に直してから言えよ」なぁんて言われちゃいますよね。

 

「TOPに戻る」ボタンを画面トップでは非表示にしよう

対策方法を調べてみると、どうやらjQueryというJavaScriptのライブラリーを使えば簡単に解決できるとのこと。

画面トップから例えば100ピクセル下に移動したところで「TOPに戻る」ボタンが現れ、100ピクセル以内の場所ではそのボタンは非表示の状態になっている。

こんな芸当が簡単にできるそうなのです。

ところがこれは私にとって決して簡単ではなく非常に難しそうに思えます。

しかし当ブログをこのままの状態にしておくわけにはいかず、いずれは時間を取って解決しようと思っています。

 

またこの技術を応用すれば「TOPに戻る」ボタンに限らずあらかじめ仕込んでおいた要素を任意の位置で表示したり非表示にしたりできるようですね。

面白いじゃないですか。

 

最近よく見かける、からくり箱のようにページのあちこちからガチャガチャといろんなものが飛び出してくるやかましいサイトはきっとこの技術を使っているのでしょう。

記事を読み始めるやいなや上から下から左右から広告がニョキニョキ出てきて人をイラつかせるサイトもこの技術で作れるってわけか?

 

ようし、オレも作るぞ。

「目が回っているのか世界が回っているのか分からなくなるくらいの、万華鏡性の酒池肉林的カオスみたいにしてやろう」

「ラビリンスに迷い込んだアルコール依存症の孔雀が見るサイケデリックな白昼夢みたいにしてやろう」

「あなたの瞳に映った私の瞳に映ったあなたの瞳に映った私の瞳に映ったあなたのあなたのあなあなあ、な。あああああみたいにしてやろう」

 

・・・

 

なーんてするわけないのでご安心ください。

 

ちなみにこんなキッチュなサイトに興味があるんだけど、オレにも作れるかな?

 

(注意! 音が出ますよ!)

www.y-n10.com

 

 

 

猫の下腹部のたるみを笑わないで それ、ルーズスキンって呼ぶんです

猫 キャットタワー

キャットタワーの上でくつろぐピヨピヨ(仮名)

 

以前からウチの猫のことで気になっていることがあります。

それは下腹部のブヨンとしたふくらみです。

写真を見ていただければ一目瞭然。

ご覧ください。

 

猫のルーズスキン 下腹部のでっぱり

みっともない下腹部のでっぱり

 

どうですか?

実に不格好じゃないですか。

お腹が床につきそうです。

腹の毛で床を掃除しながら歩いているようなものですよ。

毛も汚れるし、その体でベッドへ上がってこられるのも困りものです(掃除しろって?)。

 

肥満というほどではないけれども決してスリムとは言えないウチの猫。

ちょっとエサを減らすべきかなと考えてプチダイエット期をもうけたこともあるのです。

 

 

 

ところが最近になって、この下腹部のふくらみが肥満による脂肪の出っ張りではなく「ルーズスキン」と呼ばれる皮膚のたるみであることが分かったのです。

 

「分かったのです」などとのんきなことを書きましたが、猫と共に暮らして13年。

「ルーズスキンくらい知っとけよ」と自分を激しく責めております。

ルーズソックスなら知ってるんですけどね。

まったく飼い主失格です。

 

猫の体のことを何も分かっていない。

ルーズスキンを知らなかったことは氷山の一角で、本当であれば猫に対してもっとしてあげられることがあるのに無知ゆえにできていないのではないか?

いつか愛猫とのお別れの日が来た時に「もっとああしておけば良かった」「もっと早く気付いてこんな対処をしておけば良かった」などと後悔することになりはしないか?

 

私は「ルーズスキン」を知らずに13年間も猫と過ごしてきたということに非常にショックを受けております。

また私は動物関係の仕事をしていて、日常たくさんの猫たちに接している身なのですからなおさらです。

 

さて、ではこの不格好なルーズスキンとは一体何なのでしょうか?

いろいろなサイトを参考にさせていただきながら調べてみました。

そうすると以下の2つの役割を果たしているとの見解が多く見られました。

 

1)外敵に腹部を攻撃された時に、柔軟性に富む皮膚によって内臓へのダメージを少なくできる。

 

これはどういうことかと言うと、柔らかい皮膚によって歯や爪などの攻撃力を上手く逃がし、内臓に致命傷を負うリスクを減らすという訳なのです。

硬いもので腹部を覆うのではなく、逆に柔らかくいることで「柳に風と受け流す」戦法です。

相手を「暖簾に腕押し」の状態にするのですね。

 

2)ジャンプする時に腹部の皮膚が突っ張らず、可動域を大きく保てる。

 

これは説明の必要はないでしょう。

皮膚にゆとりがある方が後ろ足を大きく後方に伸ばすことができるのです。

 

 

 

このルーズスキンはイエネコだけではなく、ライオンやトラ、チーターやヒョウといった他のネコ科の動物にもあるそうです。

 

なんだ、そうだったのか。

百獣の王ライオンも持っているという強力な装備を、ウチの寝てばっかりいる猫も備えているってわけか。

苛酷な野生で生き抜くための特徴を我が猫も持ち合わせているということに、少し誇らしい気がしてきたではないか。

怠け猫ゆえのお腹ではなく、走ったり跳んだり身を守ったりという戦闘能力の証であったとは。

 

ただネット上でネコ科の野生動物の画像を何十枚と見てみましたが、こんなお腹をしているライオンやチーターなどは見つけることができませんでした。

みんなもっとシュッとしたお腹をしておりますけれどもね。

 

まぁいいでしょう。

このお腹のたるみが脂肪ではなく皮膚だということが分かりましたから。

しかし中には本当に肥満による脂肪でお腹が出ているケースもあるそうです。

皮膚をつまんでみて判別する方法が他のサイトで紹介されていますので、気になるという飼い主の方はぜひご確認ください。

 

またこのたるんだお腹がカワイイという声もあるようですね。

私もこれからはそう考えるようにしましょう。

ぷよぷよのお腹かわいいねと。

 

オレはルーズな性格。

あなたはルーズなスキン。

似た者同士ってことで仲良くやりましょ。

 

ちなみに「ルーズスキン」っていうのは通称で、正式には「プライモーディアルポーチ」って言うそうですよ。

カッコいいですね。

「大根の味噌煮」なんかの対極に位置する言葉です。

こんな言葉をサラリと口にすればキャバクラでモテるんじゃないでしょうか?

(なわけないか?)

みなさん、ぜひ何回も唱えて覚えましょ。

オレ?

オレはルーズスキンでいいよ。

 

 

 

猫に毛玉を吐かせたい 猫草の栽培に挑戦してみた

猫草を食べる猫

猫草を食む愛猫ピヨピヨ(仮名)

 

今日は猫草について書いてみようと思います。

 

うちの猫は年に何回か毛玉を吐くことがあります。

特に春から初夏にかけては抜け毛が多くなるため、毛づくろいをしたときに飲み込んでしまう毛の量も増えてしまいます。

飲み込んだ毛は通常は便と一緒に排泄されるらしいのですが、毛の量が多かったりすると胃の中に溜まって毛玉になることがあるのです。

 

 

 

そんな毛玉を吐き出させるために役に立つと言われているのが猫草なんですね。

草で胃が刺激されることで嘔吐反応が誘発されるそうなのです。

人間だったら喉に指を突っ込んで吐いたりすることもできますが猫にはできません。

その代わりに草を食べるんですね。

一体どこでそんなことを教わったのでしょう?

きっと本能的に知っているんでしょうね。

 

今回は無印良品の「猫草栽培セット」を使って猫草を育ててみました。

 

 

無印良品の猫草栽培セット

無印良品の猫草栽培セット

 

 

無印良品の猫草栽培セット

2個入りです

 

栽培方法は実に簡単です。

開封して口の部分を折り返すと外側の紙袋がそのまま鉢に早変わり。

紙の鉢は防水加工がされているので床が濡れることもありません。

 

 

猫草の栽培 水やり

水をやるだけ

 

季節や気温にもよると思いますが、今回は4日くらいでポツポツと発芽が始まりました。

 

 

猫草の発芽

4日後 発芽しました

 

 

猫草の栽培

7日後の姿

 

 

猫草の栽培

9日後 そろそろ食べられそう

 

10日ほどで食べ頃に成長しました。

美味しそうですね。

さっそく猫に食べさせてみましょう。

 

 

猫草を食べる猫

猫草に近づくピヨピヨ(仮名)

 

 

猫草を食べる猫

猫草にかじりついた



猫草を目ざとく見つけるとすぐにかじりつきました。

良かった。

何も反応を示してくれなかったらどうしようと心配していたのですが、この草には猫の好奇心をそそる何かがあるようです。

 

しかし鉢が軽いため、写真のように簡単に持ち上がってしまいます。

そのため噛んで引っ張って千切るのが難しそうです。

 

しばらくの間猫草と格闘していた猫はやがて諦めてその場を離れました。

食べたい気持ちはあったのでしょう。

それは見ていて感じました。

しかし残念ながら今回は3つの要因によってその願望は満たされませんでした。

 

1つは猫は元々肉食動物であり、ヤギや羊のようにモグモグと草を食むような口の構造になっていないということです。

もう1つはこの猫草セットはあまりに軽く、空中に持ち上がってしまい草が千切れてくれませんでした。

最後はうちの猫に少々工夫が足りなかったということです。

前足を使って鉢を押さえつけ、鉢が持ち上がらないようにしておいて引き千切るという発想がなかったのです。

 

その後3日ほど猫草を部屋に放置しておきましたが、猫は一切見向きもしませんでした。

もう一度チャレンジしてみようという意思も示しません。

すぐそばを通ることがあってもまるでそこに何も存在していないかのように一瞥もくれません。

 

日を替えてもう一度試してみようという気にはならないのかな?

前回うまく食べられなかったことなど猫の記憶力だとすぐに忘れてしまって、またかじりついても良さそうなものじゃないか?

 

しかしうちのピヨピヨはその後一切、猫草にかかわりませんでした。

蹴とばしたりパンチしたりというイタズラもしません。

猫草を「無視する」という能動性すら超越し、もはやその目に猫草は映ってさえいないのです。

完膚なきまでの無関心というその薄情さはむしろ爽やか。

いろいろと未練たらしい感情を引きずって生きている私にとって尊敬の念さえ抱かせる態度です。

 

仕事での失敗。

上手くいかなかった恋。

失ったお金。

 

猫にとっては反省もなければ後悔もありません。

恨みも悔しさも無念さも、そして自己嫌悪もないでしょう。

 

素晴らしいね、オレのピヨピヨ!

 

最後にあたかも猫草を食べているように見える写真を何枚かご覧に入れて今回の記事を終わりにいたしましょう。

 

 

猫と猫草

食べる真似をするピヨピヨ

 

 

猫と猫草

食べてるように見えるけど食べてない

 

 

猫と猫草

食べてませんって

 


観葉植物として育ててみるのも良いかもしれませんね。

とても綺麗なグリーンで、大好きになりました。

 

 

 

平安時代にあこがれて古文の勉強を始めたよ

ひな祭り 扇子

 

やりたいことが多すぎて何も達成できない

このところまたやりたいことが出てきてしまって困っています。

それは何かって?

古文の学習です。

そう、あの古文です、昔学校で習った。

当時はチンプンカンプンで全然好きになれなかったのに、この歳になってまた勉強してみようとしているのです。

 

 

 

どうせまた三日坊主だろ? という声も自分の中から聞こえてくるのですが、そんな声はひとまず無視してやってみようと思います。

もうすでに参考書や古文関連の書籍を数冊買いこんでますよ。

 

2年ほど前から始めたプログラミングの学習も遅々として進まず。

漢字検定も2級から受けてみようと参考書を買ったもののそれっきり。

筋トレもそこそこ効果が現れ始めてきたところで頓挫。

英語も同様で、良さそうなアプリをスマホに入れただけで休憩中。

 

どれも止めたわけではないんですよ。一時中断です。また再開しますから。

いつかね。

 

さてそんな中、今度は古文ときたもんだ。

別に飽きっぽいわけではないのです。

プログラミングだって何だって飽きてはおりません。

それどころか本当はもっともっとやりたいのです。

でも他にもやりたいことが出てきてしまうんですね。

 

「実際にモノにならなくてもやっている過程を楽しめれば良い」などと考えているわけではありません。

どれも「モノにしてやろう」と本気で思って始めたのです。

でもモノになる前に他にもモノにしたくなることが出てきちゃうんです。

いやぁ、本当に困ってますよ。

 

何かを成すためには何かを捨てなければならない?

ベストセラーになったグレッグ・マキューン著「エッセンシャル思考」を以前読んだのですが、この本にはかなりショックを受けましたね。

 

「全部をやろうとするのではなく、何かを取り何かを捨てなければならない」

「『より少なく、しかしより良く』を追求する」

「あらゆる方向に1ミリずつ進むのではなく、これと決めた方向に全力疾走する」

「トレードオフを常に意識する」

 

こんな酷なことが説かれている本です。

確かに成功するためにはあれにもこれにも手を出すのではなく「選択と集中」が必要だということは理屈では分かります。

何かを得るためには別の何かを断念しなければならないという残酷なトレードオフがあることも理解できますよ。

 

でもね、私には無理なんです。

 

大谷翔平だって二刀流でやってるじゃないですか?

どちらかを捨ててはいないでしょ?

 

でも彼は英語でのインタビューには通訳をつけているし、水泳もスキーも上手でピアノも弾けるってわけではないでしょうね、多分。

だから二刀流であれ「野球」というスポーツだけに集中しているっていうことではエッセンシャル思考の人なのかもしれないですね。

まぁ、天才を引き合いに出しても意味がないことは重々承知していますけれども。

 

なぜ今、古文なのか?

源氏物語 手書き

 

ところでなぜ古文の勉強を始めたのかという理由をまだお話ししていませんでしたね。

これには昨今の話題を独占している ChatGPT が少し関係しているんですよ。

ChatGPT が私を半鬱状態にしているんです。

AI に仕事を奪われるという不安ではないですよ。

仕事が無くなるなら無くなるで別にいいんです。

それよりもっと気分が塞いでしまうのは学んだり勉強したりする気力が失せてしまうことなのです。

プログラミングなんかは AI の最も得意とするところでしょうよ。

もはや勉強する意味を見出しにくいジャンルではないですか?

現在の AI 以上の知識やスキルを持つエンジニアは別です。AI を作る側の人間だから。

でも AI 以下のエンジニアは必要なくなるし、プログラミングの勉強は勉強のための勉強、趣味としてのプログラミングということになるでしょう。

英語だって同様です。

つまり「仕事を奪われた」ということよりも「楽しみを奪われた」という喪失感の方が大きいのです。

脳トレとしてのプログラミングとか、思考の訓練としてのプログラミングという感じになってしまって、自分で書いたソースコードによってプログラムが動いたという喜びは無くなってしまいそうです。

AI に書いてもらったコードをコピーして貼り付ければできてしまうのですから。

 

「あーあ、人の楽しみを奪いやがって」という気分です。

 

そんな時にふと思いました。

「そうだ、平安時代へ行こう。AI なんて無かった古き良き時代に」

 

科学が進歩して過去に旅行できる時代が必ず来る。

タイムマシンだってどこでもドアだっていつか現実のものになるんだ。

その日のために古文を学ぼう。

紫式部に手紙を書いたり、清少納言と話したり、素晴らしい歌を詠んで賞賛を浴びたり。

そんな日のために平安文学を学ぼうじゃないか。

 

みんなはシンギュラリティに向かって走り続ければいいじゃない?

私は逆方向へ進むから。

 

とまぁそんなわけなんです。

 

 

 

タイムマシンの話はちょっと飛躍し過ぎですが、メタバース上に平安京を出現させることは可能ではないでしょうか。

平安マニアや平安オタクたちで集まって平安朝ごっこをして遊べますよね。

その時に私が光源氏になるために、源氏物語を原文で読めるようになっておかなければならないのです。

 

学んだことをブログに書いていこう

よく言われるのが学習の効率を上げるには学んだことをアウトプットするのが良いということ。

このブログを利用しない手はないですね。

日々の学びをブログで発信していこうと思います。

はたしてそんな記事を読んでくれる物好きがいるのかどうかは不明ですけどね。

自分のための備忘録、学習成果として積み重ねていければと考えています。

 

最終的な目標はネイティブの平安ピープルと同レベルの言語能力を獲得すること。

そうなった日にはこのブログも平安語で書きますよ。

平安人に向けてね。

 

でも心配しないで。

現代語訳も併記してあなた達にも読めるようにしてあげますから。

 

と思ったけど、そんなのは ChatGPT に任せればいいんですよね。

いとをかし

 

 

 

愛猫のためにキャットタワーを用意してあげて!

キャットタワーと猫

ピヨピヨ(仮名)およそ12歳

 

愛猫家のみなさん、こんにちは。

毎日猫と戯れていることと思います。

 

もちろんキャットタワーも設置されていますよね?

えぇっ「うちにはキャットタワーなんてないよ」ですって?

 

ぜひとも用意してあげてください!

「猫とキャットタワー」という取り合わせは、言うなれば「ハムスターと回し車」「ビールと冷蔵庫」みたいに相性が良いんですよ。

 

 

 

 

キャットタワーが無くてもテーブルやイスに上ったり下りたりして遊べる猫はいいのですが、それが叶わないとなると運動好きな猫にとっては物足りません。

床の上だけの二次元の動きに限定されてしまうからです。

 

ところがキャットタワーが1つあるだけで全然違います。

猫は上下の動きが好きなので登ったり降りたりして遊んでくれますよ。

 

また高い所は猫にとって安心できる場所でもあるようです。

外敵の接近を高みから見張ることができるんですね。

もちろん部屋の中に敵なんているわけないんですけど。

 

ちなみにこのキャットタワーは2年くらい前に知人が作ってくれたものです。

廃材の木を利用し、100円ショップで購入したフェルトと縄とを使ってこんなに立派なタワーを完成させてくれました。

 

 

制作途中のキャットタワー

制作途中のキャットタワー

 

制作途中のキャットタワー

 

しかしうちの猫はせっかくタワーを設置したのにしばらくの間は見向きもしてくれませんでした。

 

作ってくれた知人から「猫は登ったか?」と尋ねられるたびに「まだ登ってない」と答えるのが申し訳なかったものです。

 

その知人はそれまでにも親戚や友人のために何基かキャットタワーを作ったことがあるそうなのですが、どの猫も喜んで一目散に登ったらしいのです。

 

「お前のとこの猫は面白くない」

「作った甲斐がない」

なんて思われてそうでちょっと心苦しい日々を過ごしました。

 

「抱き上げて載せてみようかな?」と考えたこともあります。

「上段にエサを置いて、食べるために登るように仕向けようか」とも考えました。

 

しかし猫が自発的に登るまで待ちたい気持ちもあって何もしませんでした。

 

別の友人曰く「もう結構な歳だから新しいものに好奇心を持たなくなっているんじゃないかな?」

私 「好奇心旺盛で困ってるくらいだよ。それにそんなに高齢ってわけでもない」

友人 「知らない物体なので怖がってるんじゃないか?」

私 「怖がってないと思う。土台の部分に近づいてにおいを嗅ぐような時もある」

友人 「もう体力が衰えていて高い所へ登りたいと思わないんじゃないかな?」

私 「毎日元気一杯だよ。テーブル、イス、パソコン台、出窓には飛び乗るし、部屋中走り回って丸めたティッシュをドリブルで運んでシュートも打つよ」

友人 「縄を巻いてある柱で爪とぎもしないのか?」

私「しないね。お気に入りの決まった爪とぎ場所があるのでね」

 

そんな会話から1ヵ月以上経った頃でしょうか。

朝起きてキャットタワーを見た私は一瞬で眠気が吹き飛びました。

ピヨピヨがタワーの1段目に座っているではないですか。

 

 

キャットタワーと猫

ついに登った

 

 

「やっと分かってくれたか」

「そうなんだよ、登るためのものなんだよその木は」

 

 

キャットタワーに登った猫

部屋が少し?散らかってますが・・・

 

うちの猫は3段目がお気に入りのようです。

そして4段目以上には決して登りません。

てっぺんに座っている姿を見てみたいものですが、どうしても4段目以上には登ってくれないのです。

 

キャットタワーを置くと確かに部屋のスペースは少し狭くなります。

しかし猫にとっては上下方向へも動けるので良い運動になりますし、ストレス解消にもなると思います。

家で寝ているだけの猫にストレスなんてあるのかっていう疑問もありますけどね。

元気で長生きしてもらいたいですね。

 

あなたの猫ちゃんにもキャットタワーを試してみてはいかがでしょうか?

 

 

 

モノに対して「してあげる」っておかしくない?

キーボード クリック

 

「ここをクリックしてあげて~」

YouTubeでプログラミングに関する動画をよく観るのですが、観ていて気になることがあります。

「~してあげる」って言う人がけっこう多いのです。

「してあげる」の何が問題なの? とお思いでしょう、きっと。

大問題なのです。

こんな風に使われているんですよ。

「ここをクリックしてあげてください」と。

 

 

 

なんじゃそりゃって思いませんか?

誰に対してしてあげるんだよと。

してあげて誰が喜ぶのと。

パソコンのためにしてあげるんでしょうか?

 

「ここにカーソルを合わせてあげて」

「このボタンをクリックしてあげます」

ゲェッ

キモッ

身震いしてしまいます。

違和感を覚えるなんてもんじゃないですよ。

サブイボが立つほどです。

 

以前からテレビなどでもこういうおかしなものの言い方をするのを耳にすることはありました。

しかしこれほど頻繫にではなかったと思うのですが。

ユーチューバーにそういう人が多いのか、プログラマーにそういう人が多いのか、それともたまたま私が観た番組に多かっただけなのかは分かりません。

しかしその言い方が気になって番組の内容に集中できないくらいです。

30分間の動画の中で何十回となくこの「してあげて~」というのが登場するのです。

「また『してあげて~』が出てくるんじゃないか」とハラハラしてしまって、安心して観ていられません。

 

こんな風にモノに対して「してあげる」っていう言い方、あなたはどう思われますか?

私は正気を保つのが難しいくらいに血圧が上がってしまうのですがね。

動画の中から「してあげる」という言葉だけを拾って自動で削除してくれるアプリの完成が待たれます。

 

誰かコメント欄などから指摘してあげればいいのにと思うのですが、する人はいないのでしょうか?

まぁ私もしていませんけれども。

 

ちなみに今言った「指摘してあげれば」の「してあげる」は適切だと思って使いました。

モノに対してではなくそのユーチューバーに対して言っています。

また恩着せがましい感じになるので普段の会話では使いづらいのですが、上のような文脈は「してあげる」を使用するのに丁度おあつらえ向きなのです。

ここで使わなければどこで使うんだというくらい使用頻度の少ない言葉です。私にとっては。

 

良かったね、オレの中の「してあげる」君

やっと今、君は水を得た魚のようにピチピチと泳ぎ出せるんだ

※意味不明ですね。気にしないでください。

 

モノに対して「してあげる」と言う心理

私が想像するに、モノに対して「してあげる」という言い方をする状況というのは「誰かが誰かに何かを教える」ような場面が多いように思います。

「エンジニアのユーチューバーが視聴者にプログラミングを教える」

「料理の先生が生徒に料理を教える」

このような状況の時に発生しやすいように思うのです。

 

 

 

ではなぜこのような状況下で発生しやすいのか?

それは先生が生徒に「~してください」とストレートに言うのをためらう心理があるからだと思います。

教える人が教わる人に「この時にはこうしてください」と言うのは何ら不適切ではありません。

やり方を教えているのですから必然的にそのような言い方になるはずです。

にもかかわらず繊細な彼らはこう考えてしまうのです。

「『~してください』という言い方は少し強くはないだろうか?」

「教える側の立場だとはいえ命令口調になってはいないだろうか?」

「もっとソフトな言い回しはできないだろうか?」

 

そこで考え出されたのが「してあげてください」なのです。

誰かのため、あるいは何かのために「してあげて」とお願いするニュアンスを含ませることで、「先生から生徒への一直線の指示」ではなく「誰か(何か)のためにこうしましょうよ」という提案のような雰囲気を醸し出すことができる。

このように私は想像します。

 

優しいんですね、みなさん。

視聴者の気分を想像してとても気を遣って話されているんですね。

それはそれで良いことだと思います。

でもそこまで気を遣う必要はないのですよ。

 

赤ちゃんや子供は弱い存在です。

そのためしばしば手加減したものの言い方がなされることがあります。

「おそとへいこうね~」

「もうねましょうね~」

 

さらに度が過ぎるとこうなります。

「おちょとへいこうね~」

「もうねまちょうね~」

 

これらは強い言葉によって幼子にダメージを与えないように配慮したものだと思われます。

その効果や是非は別としてですけれども。

 

しかし私たちは赤ちゃんや子供ではありません。

傷付きやすい敏感肌の乙女でもありません。

ウブで儚いガラスの心も持ち合わせておりません。

人差し指でポチっとするだけのことを伝えるのに臆病にならなくていいのです。

少しばかり強い言い方をしただけで視聴者が離れていくのではと不安なのですか?

 

私の考える最適解はコレだ

 

クリック

 

「ここをクリックしてください」

清く正しく美しい最適な言い方はこれです。

自然体で、さわやかに言いましょう。

「ここをクリックしてください」と。

 

これでいいんです。

自信を持ってビシッと言えばいいんです。

「ここをクリックしろ」と命令しているわけではないのですから。

むしろ命令口調でもいいくらいですよ。

英語の表現だと「ここをクリックしなさい」は普通に使われているのではないでしょうか?

道路標識の「止まれ」を見て「止まれとは何だ、止まってくださいだろうが」と怒り出す人はいないでしょう?

 

「高評価」と「チャンネル登録」が大好物のユーチューバーのみなさん。

「してあげる」を無くせば高評価「シ・テ・ア・ゲ・ル」。

 

 

 

アボカドにとってつらい冬がやってくる。ベランダから室内へ引っ越しだ

アボカド アボカドの木

風呂場でシャワーを浴びてきれいになったアボカド

 

アボカドは南国の植物なので日本の冬は苦手です(沖縄なら大丈夫そうですけどね)。

私の住んでいる地域では冬には最低気温が-5度を下回る日もあります。

 

ですのでうちのアボカドは春夏秋はベランダで過ごすのですが、毎年11月頃には室内へ取り込みます。

 

今日はその引っ越しをおこなったので記事にしてみました。

 

 

 

アボカドは種から発芽させて4年になります。

今では高さ2mにまで成長しました。

 

どうして風呂場で写真を撮ったのかと疑問に思われますか?

シャワーで木を洗いたかったからです。

 

ベランダで育てている間は1度も葉に水を掛けていなかったのです。

辺りが水浸しになるし、下の階のベランダに水が落ちて階下の住人に迷惑をかける懸念もあったからです。

ジョウロで鉢の中に水をやるのみでした。

雨も当たらないので葉にはホコリが溜まって白っぽくなっています。

小さなクモが葉の裏に蜘蛛の巣を作ってしまいました。

何かの虫の卵だかフンだか羽だか抜け殻だか死骸だかもくっついでいます。

 

自然のなかで生きている樹木であれば当然のことで、さまざまな虫や小動物が樹木と共生しているのです。

でもアパートの3階のベランダで、鉢植えという不自然な環境でもこんなふうになってしまうのですね。

 

わがアボカドがそれだけ頼りにされているという証のように思えて嬉しいです。

 

しかしながら木を部屋の中に入れるとなれば汚れを落としてからにしたいものです。

そんなにきれいな部屋でもないんですけどね。

まっ、そんなわけでシャワーで身を清めてもらったというわけです。

 

アボカドの枝

アボカドの枝

 

これから来年の春までの5ヵ月間ほどを室内で過ごすことになります。

 

今指を折りながら月数を数えてみて思ったのですが、5ヵ月って長いですよね。

1年の半分近いんですから。

 

 

 

夏が終わるとアボカドはその成長をピタリと止めてしまいます。

そして次の夏が始まると成長の続きを再開させるのです。

そのサイクルが4年間の栽培経験から分かってきました。

 

そこで心配されるのが来年の夏にどれだけ成長するかなのです。

大きくなってくれるのは嬉しいのですが、さすがにこれ以上大きくなると頭がベランダの天井につかえるかもしれません。

鉢ももっと大型のものに替えなければならず、重量も増え、移動が難しくなるでしょう。

 

みなさんはどのようにしていらっしゃるのでしょうか?

ちゃんと調べたわけではないのですが、ちょっと耳にした情報によると木のてっぺんの部分(樹頭と呼ぶそうです)を切ってしまって今以上に伸びないようにする方法があるのだとか。

 

 

アボカドの木

アボカドの樹頭

 

うーん、それも1つの方法だし、いずれはそうしなければならない時がくるのかもしれないのですが、何だか可哀そうですね。

それは最後の手段で、できるだけ後に引き延ばしたいという気持ちです。

 

上には伸びなくなっても横に大きくなるとか、幹が太くたくましくなるとかそんな成長の仕方を見守るのもいいのかもしれないという気もしますが。

 

来年の夏の成長度合いを見て決めるつもりでいます。

 

困ったな。また悩み事が増えちゃった。

 

うちには猫がいます。

その猫が木を引っ搔いたり葉っぱをかじったり土をほじくったりしないかも気掛かりな点です。

 

白黒猫 イスの上で眠る猫

愛猫ピヨピヨ(仮名)

 

去年までは大丈夫でした。

今年も大丈夫であってくれ!

 

そうそう、アボカドの弟分のレモンも一緒に室内に入れましたよ。

同じくシャワーできれいになりました。

 

レモンの木

レモンの木

 

みんな、頑張って冬を乗り越えようね!

 

 

 

トラックの運転手さん同士クラクションで挨拶するのやめてもらっていいですか?

 

目次

 

トラックの運転手同士がクラクションで挨拶してうるさい

トラックやダンプカーの運転手が仲間の車両とすれ違う時にクラクションを鳴らして挨拶するのを見聞きしたことはありませんか?

 

私の職場の近くに最近トラックの配送センターができました。

巨大なセンターで、毎日様々な運送会社のトラックがひっきりなしに出入りしています。

そのせいかどうかは分かりませんがトラックのクラクションが頻繁に聞こえてくるようになったのです。

「パパーン」とか「パパパパパーン」とか「ブッ」とか「ババッ」とかです。

仕事をしながら「うるせえな」とか「やかましいわ」などと舌打ちすることが増えました。

正直に言って悩まされています。

下品な言葉が浮かんでくる自分に対する嫌悪も相まって、とても嫌な気分になります。

 

どうしてこんなに頻繁にクラクションを鳴らすのか?

危険を回避するためにやむを得ず鳴らしているのでしょうか?

だとすればなんと危険な国道なのでしょう?

いえ、実はなんの危険もありません。

交通量も少なく見通しも良い、真っ直ぐな田舎の国道です。

 

トラックの運転手たちは互いに挨拶するためにクラクションを鳴らしているのです。

なぜ挨拶だと分かるのかですって?

どちらかが「バババーッ」と鳴らすと他方が「ブブッ」と呼応しているからです。

見なくても分かります。

 

ただし挨拶のためにクラクションを鳴らす行為は道路交通法で禁止されています。

法律違反です。

あなた、法律違反です。

法律違反でーす!

 

 

 

なぜトラックの運転手は挨拶をしたがるのか?

私の個人的な想像では以下の通りです。

 

仲間との連帯感を求めている。

トラックドライバーというのは会社や営業所を出発すれば孤独です。

道路という戦場を独りで走り、戦わなくてはならないのです。

「おおげさな」と思われる向きもあるかと思います。

しかし時に知らない道を不安に駆られながら進み、指定された時刻に間に合うように荷物を届けなければならない。

トラックの巨大な図体は場面によっては扱いにくく神経をすり減らします。

そんな心理的なプレッシャーを抱えながら、肉体的な労働としての荷物の積み降ろしまでこなさなければならないのです。

これに対して「戦い」という言葉を当てるのはさほど見当違いとはいえないのではないでしょうか?

 

そんな孤独な戦いの場で同志に出くわした。

この時の心境は、さながら火星探検をしていて思いもよらず地球人に出会ったようなものでしょう。

「嬉しい」「仲間だ」「同胞だ」「ブブーッ」「ババババーッ」

こんな感じだと想像します。

だから会社に戻れば先ほどの相手と挨拶も交わさないということも考えられます。

ただの同僚のうちの1人。あるいはもっと言えば「嫌なヤツ」。

そんなことだってあるでしょう。

 

挨拶をしたいのではなく挨拶しているところを「見られたい」

先ほどは運転手を弁護するような、少し味方をするような立場で書いてみました。

ここから後は違います。

私の性格の悪さの本領を発揮するのはここからなのです。

 

運転手は挨拶したいのではなく、挨拶というパフォーマンスをおこないたいだけなのです。

このパフォーマンスを満足いくものにするには2つの要素が必要です。

1つは観客。

もう1つはパフォーマンスの「派手さ」です。

 

説明しましょう。

観客、すなわち付近を走行している他の車両、通行人、住人などがいない場所での挨拶はあまり意味を持ちません。

それは文字通り相手への挨拶そのものであり、それ以上でも以下でもありません。

そして挨拶そのものが目的であるのなら、すれ違うときに手を挙げるだけで事足りるのです。

もしくは小さく「プッ」と鳴らすだけでもパッシングすることでも目的を達成できるのです。

事実観客が誰もいない場面ではそのようにしている可能性もあります。

 

そしてもう1つのパフォーマンスの「派手さ」について。

これは言うまでもなくクラクションの音量と鳴らしている時間の長さに依存することになります。

「ババババババーーーバッバーーッ」と大音量かつ長時間鳴らすことがあるのはそのためです。

観客は一様に驚きます。

トラック同士の友情と交流は周囲の注目を集めます。

舞台の上でスポットライトを浴びる俳優さながらドライバーの表情にも歓喜の色が浮かびます。

道路はレッドカーペットと化すのです。

挨拶というパフォーマンスは成功しました。

 

大きな音を出したい、ストレスを発散したいという欲望

人は誰でも大声を出したい、大きな音を立てたいという欲求が本能的にあるのではないかと思っています。

海や山に向かって叫びたい。

太鼓でもドラム缶でも鉄板でもいいのですが、思い切りたたいて大きな音を出してみたい。

そんな気分になったことはありませんか?

特にストレスがたまっている時には大きな音を立てるとスカッとします。

 

しかし私たちは子供の頃から「静かにしなさい」「おとなしくしなさい」「じっとしていなさい」と躾けられてきました。

大きな音を立てると周りに迷惑をかける。

悪目立ちすることで何らかのリスクを負うことになるかもしれない。

そういった考えから私たちは目立たないように自分の殻に閉じこもるようにして、周囲との軋轢を生まないように生きてきたのです。

 

しかしここで手っ取り早く大音量を発生させ、かつ特段のリスクも負わないで済む方法があります。

それが「挨拶を装ったクラクション」です。

大音量についてはもはや説明の必要もありません。

重要なのは「挨拶」という免罪符によって運転手たちが守られているという事実です。

「挨拶をしないよりもした方が良い」という意見に異を唱える人はいないでしょう。

そう、挨拶とは肯定されるべき良いおこないなのです。

「仲間を大事にする」「人と人との絆」「敵意がないことの表明」こういった気持ちの宣言なのです。

だから私たちは「挨拶する心」に対して攻撃することができません。

クラクションでの挨拶は安全なストレス発散法なのです。

 

存在を主張したい。暴走族の迷惑走行と根っこは同じ

暴走族がやかましいエンジン音を響かせて走り回る理由は何でしょうか?

それは「他人に迷惑をかける快感」を得たいがためなのです。

普段私たちは人に迷惑をかけないようにかけないようにと気を遣いながら生きています。

常に自分を律することを忘れず、他者の目を意識して生きているのです。

そんな中、「傍若無人が許されない社会で傍若無人に振る舞っている自由なオレ」を表現しようとする人たちがいます。

暴走族です。

そしてもう御一方ここで紹介したいのが「挨拶クラクションで暴走するトラック運転手」なのです。

彼らはクラクションを鳴らしまくることで「他人に迷惑をかける快感」に震えています。

「どうだ、うるさいだろう?」

「ざまぁみろ、普通の乗用車では真似できまい」

「これがトラックの力だ」

「うらやましいか? トラックの運転手になってみろ」

 

暴走族が仲間同士でつるんで寂しさや疎外感を慰めあっているのと同様に、トラックの運転手もまた同じような心の闇を抱えて毎日を生きているのではないかと心配です。

トラックの運転手さんが迷惑行為ではなく善行によって自己表現する方法を模索しなければならないと思います。

 

私の考える「善行による自己表現」の例はこんな感じです。

横断歩道で停車して仔犬に道を譲る。

仔犬は安全に道路を渡り、しっぽを振って「ワン」と言う。

それを見た周囲の人たちは拍手をし、運転手に手を振って称賛の意を伝える。

 

どうでしょう?

まぁ、ちょっとふざけてしまいましたがあなたならどんな方法があると考えますか?

 

 

 

トラック運転手の誤解を正す

トラックは車体が大きいゆえに、それを操るドライバーがある種の有能感を抱くことは容易に想像できる。

その有能感がエスカレートしていくとやがて万能感という妄想に陥ってしまうこともまた想像可能です。

その万能感からは以下のような虚妄が導き出されないとも限りません。

 

自転車は小さいから小さい音でベルを鳴らすがトラックは大きいので大きい音でクラクションを鳴らすのが当たり前。いや、それが正義。

 

乗用車はただ走っているだけ。もっと言えば邪魔な存在。

トラックは仕事をしているのだから大きなクラクションも許容されるべき。

 

乗用車の運転手とトラブっても何も恐くない。

相手が車から降りてきて下から何か言ってきてもタイヤに向かって怒鳴っているだけ。トラックドライバーは遥か高みの運転席から見下ろしていて安全を脅かされる心配もない。

 

大型トラックのドライバーは大型免許を持っており、普通免許しか持っていない普通車のドライバーより偉い。凄い。立場が上。

牛丼の並盛より大盛の方が上なのと同じ。TOEIC300点より800点の方が上なのと同じ。シシャモよりマグロの方が上なのと同じ。

 

これらの考え、すべて間違ってます。

 

クラクションでの挨拶を撲滅させるために

この章では野蛮な「挨拶クラクション」をトラック運転手のみなさんにやめていただくために私たちがどのような活動をしていくべきかについて考えてみたいと思います。

啓蒙活動

まず1つ目は啓蒙活動です。

少し上から目線の偉そうな響きがなくもない「啓蒙」という言葉ですが、あえて使ってみました。

日本は街にゴミが落ちていないきれいな国だと言われることがあります。

それに倣って「音のゴミ」である不必要なクラクションも無くそうではないかという考えをもっと広く浸透させていければと考えます。

 

「クラクションで挨拶しません」ステッカーの導入

悪いおこないは目に付きますが善いおこないは誰の目にも留まりにくいものです。

そこで自分で善行をアピールすることも有効です。

考えてみれば気持ち悪い行為ではあるのですが背に腹は代えられません。

 

例えば

「法定速度で走行中」

「交差点を右左折するとき徐行します」

などのステッカーを貼っているトラックを目にすることがあります。

「そんなもん当たり前だろ、いちいち自分で言うな」ってあなたは思いますか?

私は思いますね。いちいち言うなって。

しかしその私が言うのも何なのですが「クラクションで挨拶しません」というステッカーを貼るトラックが出てきて欲しい。

クラクションで挨拶するトラックとそうでないトラックとを差別化した上で、自分は後者の方ですと宣言するのです。

この宣言を目にすることで大衆の意識に働きかけることが可能になります。

 

ドライブレコーダーとネットの活用

「人は見張られていなければ悪いことをする生き物だ」と考えなければならないなんてなんと悲しいことでしょう。

しかしこれは半ばは受け入れなければならない現実ではないでしょうか?

防犯カメラが町のいたるところで目を光らせている現代と50年前とでは人々の犯罪に対する意識が変化していることは明らかでしょう。

 

特に日本では「神様が見ている」のではなく「世間のみなさんに見られている」という意識が犯罪の抑止に力を持ったと考えられています。

ドライブレコーダーという名の監視カメラと「ペンは剣よりも強し」という言葉をお守りにしたネット上での告発。

これらの武器が理性に訴えてもご理解いただけない頑固なクラクションドライバーへの最後の切り札になることと思います。

 

互いに監視し合い、チクり合い、ネットで晒し合う世の中。

イヤですね、ほんと。

 

 

 

トラックドライバーだった過去の私の経験談

さて、ここまでクラクションを鳴らす運転手をやっつけるための文章を書いてきた私なのですが、実は遠い昔、そう今から四半世紀前にトラックドライバーをやっていた過去があるのです。

その時の私がどうだったのかについてちょっと述べてみようと思います。

 

ここで先に皆様に謝っておきましょう。

私もかつてクラクションを鳴らして挨拶していたドライバーだったと。

 

挨拶されたならば返事をしなければならないというのは人間社会の掟です。

その掟に私も従っていたのでした。

 

クラクションでの挨拶が習慣になっていくと、段々と自制のタガが外れていくのが自分にも分かりました。

そして何度かは大きな音で「パパパパパーッ」っと鳴らしてみたこともあるのです。

その時の背徳感と表裏一体の不思議な快感を今でも思い出すことができます。

 

大型トラックはまるで装甲車のように自分を守ってくれる堅い殻でした。

「何てことをしてしまったんだ、オレは」という自責の念とないまぜになった「これがトラックの特権だ」というような意識。

周囲の車両から顰蹙を買っているのは痛いほど分かっていながら「これは挨拶なんだよ」「大声で『こんにちはーっ』て言ってるだけだよ」という言い訳で自分を無理やり納得させていました。

にもかかわらず、クラクションでの挨拶を終えた後に襲ってくる虚しさと後悔の理由は何だったのでしょう?

 

仕事を終えて駐車場にトラックを停めた私は、飛び降りるほど高い運転席から地上に降り立ちました。

運転席のドアを閉めた私はあまりにちっぽけで、その小ささに打ちのめされました。

疲れ切った、プライドだけ高い、平凡な23か4ぐらいの小僧でした。

ほどなくして、まるで病から回復したかのように私はクラクションでの挨拶をしなくなりました。

 

「もう時効だから言うけど」というような言い方が好きではないので、過ぎた年月にかかわらずこの場を借りて謝りたいと思います。

私のクラクションで不快な思いをされた方、特定することはできませんが、本当に申し訳ございませんでした。

 

今は乗用車を運転していて他の車に道を譲ってもらったりした時に、昼間なら手を挙げたり会釈するなどして謝意を伝えます。

夜間は軽く「プッ」と鳴らすことはあるのですが、押す力が弱すぎて上手く音が出ないことがしばしばです。

「ありがとうボタン」と「ごめんなさいボタン」くらいはあったらいいのになと思いますが、世界のトヨタでさえそんな表示機能を採用しないところをみると、車と車とのコミュニケーションは必要ないというのが答えなのでしょう。

 

おまけ(道路交通法からの抜粋)

 

(警音器の使用等)

第54条 車両等(自転車以外の軽車両を除く。以下この条において同じ。)の運転者は、次の各号に掲げる場合においては、警音器を鳴らさなければならない。

 左右の見とおしのきかない交差点、見とおしのきかない道路のまがりかど又は見とおしのきかない上り坂の頂上で道路標識等により指定された場所を通行しようとするとき。

 山地部の道路その他曲折が多い道路について道路標識等により指定された区間における左右の見とおしのきかない交差点、見とおしのきかない道路のまがりかど又は見とおしのきかない上り坂の頂上を通行しようとするとき。

 車両等の運転者は、法令の規定により警音器を鳴らさなければならないこととされている場合を除き、警音器を鳴らしてはならない。ただし、危険を防止するためやむを得ないときは、この限りでない。

(罰則 第1項については第120条第1項第8号、同条第2項 第2項については第117条の2第6号、第117条の2の2第11号ト、第121条第1項第6号)

 

 

 

 

 

ストリートワークアウトのトレーニング用に単管パイプで鉄棒を作ったよ

懸垂バー 鉄棒 ディップス 単管パイプ

懸垂とディップスが室内でできる!

 

ストリートワークアウトってご存知でしょうか?

 

ジムなどでおこなうウエイトトレーニングではなく、公園などの屋外で主に自重のみを使っておこなうトレーニングなのです。

 

ストリートワークアウトの魅力やトレーニングの方法についてはまた改めてお伝えしようと思います。

 

今日は「こんなすごいマシーンを作ったぞ」という自慢話です。

もう、嬉しくてね。ちょっと自慢させてください。

 

どうですか、この無骨なシルエット。

一切のムダを排除した機能美。

無慈悲なほどに筋線維を損傷させられそうな予感に武者震いをおさえることができません。

 

もっと近づいて見たいって?

よーしいいだろう。とくとご覧あれ。

 

単管パイプで作ったディップスバー

ディップスバー



単管パイプとクランプ

クランプによる堅牢な固定。ビクともしない

 

いかついでしょう?

いぶし銀のように鈍い光を放つ重厚な存在感。

ほれぼれしてしまいますね。

偏執狂的なほど過剰に補強してあるのです。

パイプがグラグラしたり弛んだりしたら怪我しちゃいますからね。

 

 

 

この器具でどんなトレーニングができるのかをご紹介しましょう。

まず懸垂です。

とても重要なトレーニングですね。

広背筋や大円筋といった背中の筋肉。

そして腕の筋肉も鍛えることができます。

 

握るときの手の幅を広くとるか狭くするかによって使われる筋肉が微妙に異なります。また握り方が順手か逆手かによっても変わってきます。

 

低い方の鉄棒では逆上がりを練習できます。

斜め懸垂もできます。

そしてゆくゆくはフロントレバーやバックレバーといったストリートワークアウトの代表的な技もできるようになりたいものです。

今はまだ全然できませんが練習中です。

 

2枚目の写真でディップスバーというものをご紹介しました。

短いパイプが2本並行に突き出している部分です。

これは何をするものかといいますと、その名の通りディップスという運動をするものなのです。

どういう動きなのかを言葉で説明するのは難しいです。

私の拙い文章力では上手く伝えることができないでしょう。

ご興味のある方はぜひ他のサイトをご参照ください。

 

 

 

さてこのマシーン、実は重大な欠点が1つあるのです。

(マシーンと言ってもそれ自体が動くものではないので本当はマシーンではなく、つまり「機械」ではなく「機器」にあたると思われるのですが、それは承知の上でどうかマシーンと呼ばせてください。親バカです。生みの親)

 

その欠点とは何か?

それは「見ていると触らずにはいられない魅力」という魔力なのです。

このマシーンが生み出された意図であるところの運動を中止するという判断力を、この危険なオブジェクトは奪います。

一旦パイプを握ったが最後、トレーニングを終了する理由を探すことは困難を極めます。

トレーニーの筋肉を破壊する喜びだけを滋養にしてギシギシ軋むサディスティックな構造物。

さながら怪物を作り出してしまったフランケンシュタインの心境です。

 

ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、筋トレというものは毎日やることで効果が上がるものではありません。

トレーニングによって微細な損傷を受けた筋肉は、その後数日間をかけて回復することによって以前よりも強い状態に成長するのです。

もしも毎日筋トレをするのであれば鍛える筋肉を日ごとに替えて、ローテーションを組んで行うことが推奨されています。

 

ところがどうでしょう?

私がこの世に生み出してしまったマシーンは、その妖艶な引力で私を引き寄せ、バーを握らせ、身体を持ち上げさせることを止めません。

 

「今日は身体を休めよう」

「筋肉痛が回復するまで待とう」

「パイプ群を眺めるだけで我慢しよう」

こんな甘い考えは、明かりを消した部屋で鈍い光をたたえながら待ち伏せしているアイツに一撃でやられてしまうのです。

パイプから超音波だかフェロモンだかを出して脳内物質をかき乱す作戦なのでしょうよ。

 

それが唯一の欠点です。

対策としてパイプに洗濯物を干して美観を損なうようにしていますね(嘘)。

 

さあ、あなたのお部屋にも1台いかがでしょうか?

パイプの寸法やクランプの数などの設計図をここに載せてもいいのですが、各々の身長や部屋の広さなど条件が様々ですのであえて記載はいたしません。

写真を参考にお好みの形態に作り上げていただければと思います。

 

製作上の注意としましては、クランプをしっかりと締めること。

また、たまには増し締めをして弛みがでないように気をつけていただきたいです。

それと単管パイプを切断する時に切断面にバリが残ることがあります。

この金属のトゲのようなもので痛い思いをすることがないように切断面の状態に注意を払っていただきたいです。

 

「大丈夫、そんなもん誰も作らねえよ」って?

そうですよね。っと。

 

 

 

ポイントカードを作り過ぎて気が滅入ってしまった話

 

ポイントカードを発行している店がたくさんあります。

カードを作って登録し、支払いの時に提示するとポイントが貯まるので得することになっています。

みなさんはそんなポイントカード、行く店行く店で作ってますでしょうか?

 

 

 

私はというと、今までポイントカードを作ることはほとんどありませんでした。

毎月ギリギリの生活をしている身で、1円でも2円でも節約したいなどと考えているくせに「この店にはたまにしか来ないのだからカードを作っても仕方ない」という気持ちになってしまう。

また今までさんざんその店で買い物をしてきた場合などは「今さら作ってもこれまでの分は取り戻せないしな」という気分になるのです。

まだまだこの先もその店で買い物し続けることが分かっているにもかかわらずです。

 

ところがここ最近、何がキッカケなのか自分でも分からない心境の変化があってポイントカードを作り始めたのです。

「思い立ったが吉日」という言葉もありますし「始めるのに遅すぎるということはない」などと言われることもあります。

 

そんなことを考えながら、夏の暑さでテンションが上がったことも手伝ってか私は行動を起こし出したのです。

 

nanacoカード、Tポイントカード、トライアルのカードくらいは持っていたのですが、よく行くスーパーのカード、ドラッグストアのカードなどを作り始めました。

またそれらのアプリをスマートフォンにインストールして詳細を見ることもできるのですね。

 

別にスマホ音痴というわけではないのですが、あまり興味がなかったのです。

スマートフォンを使って決済できるしくみも世の中にはたくさんありますが、ほとんど使ったことがありませんでした。

 

重い腰を上げてようやくPayPayを使えるようになったのが最近の話です。

楽天ポイントカードも作りました。

イトーヨーカドーアプリも。

ガソリンスタンドのENEOSアプリも。

 

今後やらなければいけないのがWAONカード、BOOKOFFアプリ。

それからSuicaっていうのは昔からよく耳にはしますが何なんでしょうかね。

こんなこと言うのも恥ずかしいのですがよく知らないんです。

私が持っているゆうちょ銀行のキャッシュカードにSuicaっていうマークが入ってるんですが、これがそのSuicaなんでしょうか?

電車に乗るときに使うイメージなんですが(間違っていたら済みません)電車に乗るのは年に1回くらいなんですよ。田舎なのでね、ここは。

 

 

 

そんなわけで休日だった今日1日をスマホを握りしめて過ごしました。

アプリをインストールしたり、パスワードの設定をしたり、「近くの店を登録する」をしたり、クーポンを獲ったり。

 

座りっぱなしで腰を痛め、スマホの見過ぎで目をショボつかせ、血行が悪くなったのか仕事をしている日よりも体がだるい。

Wi-Fiの電波が悪いのかパソコンが古くて重いのか知らないけど作業が遅々として進まない。

何度も再起動させてまたやり直し。

利用規約を読みかけては3行で断念。

 

そして気がつけばすでに夜。

クーラーの冷気に当たり過ぎたせいかなんだか具合が悪い。

 

正直に言いましょう。

このポイントカードとアプリの作業に、だんだんムカムカしてきたのです。

そして憂鬱な物悲しい気分に陥ってしまいました。

一体なぜこんなことになってしまったのだろう?

 

休日の1日をムダにしてしまったという罪悪感のせいでしょうか?

何の益にもならないことに時間を費やしてしまったという徒労感のせいでしょうか?

ヒカキンやローランドだったら絶対にやらないだろう行為を、ジメジメとみすぼらしく行った自分を惨めに感じてしまったのでしょうか?

 

どこの店も客の囲い込みに一生懸命で、それは悪いことではないのですがちょっと食あたりしてしまった感じです。

どれもこれも似たような体裁のサイトで、同じような内容を何度も登録させて、何曜日は何パーセントOFFだとか、何の日はポイントが何倍だとか、「通知を許可するか?」だとか。

そういうのをずっと見ているうちに腹立たしい気持ちになってきたんです。

その会社やアプリの批判ではないですよ。

私の今日の活動と精神状態との歯車が上手く嚙み合わなかったのです。

明日になれば気分も元通りに戻るでしょう。

 

費やした今日の労力をアプリたちが少しずつ償却していき、遠い未来には幾らかの利益をもたらしてくれることを願うばかりです。

 

 

 

CSS の "scroll-behavior" プロパティを使って、なめらかなスクロールを演出したい

最近知った驚愕の事実についてお話しします。

 

ウェブサイトで「目次」の項目をクリックするとページ内の該当箇所に移動しますよね。

また「画面トップへ」というようなボタンを押すと、その画面の一番上に戻ることができます。

その時に目的の場所へ瞬時に移動するのではなく、指でスクロールさせたかのようにスルスルスルっとページが動いて到着する、というのを見たことがありませんか?

 

 

 

私は今まで特に気にしたこともなかったのですが、言われてみればそんなサイトもあるなということに思いいたります。

 

どうして気にしたことがなかったのかと言うと、画面がスクロールしていって目的の場所に遷移するのは不自然なことではなく、それがあたりまえだと感じていたからです。

何も違和感を持たなかったのです。

瞬時に移動が完了する動きの速いサイトもあれば、少し時間のかかる場合もあるのだろうくらいにしか私の脳には引っかかってこなかったのです。

 

ところが最近知りました。

あのスクロールが実は見せかけだということを。

あたかもなめらかに画面が動いているような演出に私は騙されていたのだということを。

本当は瞬時に目的の画面を表示できるのに、あえて時間を費やしてスクロールする様子を読者に見せているのです。

 

なんと素晴らしいアイディアでしょう。

これは恐れ入ったね。

よくもそんなことを考える人がいるものですね。

 

「表示速度は1ミリ秒でも速い方が正義」と考えるのが普通だと思うのですが(私だけ?)、速さと滑らかなスクロールのもたらす効果とを量りにかけて後者を選んだわけです。

 

ではどういう理由でこのような「なめらかスクロール」を表示するのでしょうか?

それは一瞬にして画面が別の場所に移ってしまうとユーザーが戸惑ってしまうという懸念があるからだそうです。

「あれ? 一体ここはどこだ?」

「私はだれ?」

と不思議の国に迷い込んだように目をパチクリさせてしまう人もいるようです。

 

また私のように、スルスルと画面が動く様を眺めるのが気持ちいいと感じる人もいるかもしれません。

そんなわけでなめらかスクロール技術が使われているのです。

中にはスクロールの速度が変化するものもあります。

目的地で停止する時に急ブレーキで止まらずにやんわりと止まるものも目にします。

まるでカジノのルーレットが少しずつ回転速度を落としていき、やがて重力の法則に身をゆだねて着地するかのような優雅なランディング。

JavaScript という言語とそれを操るプログラマーの技術がタッグを組めば、そんな魔法のような効果を作り出せるのです。

 

 

 

「オレもやってみたい!」

 

「なめらかスクロール」を実現するためにはいくつかの方法があるようです。

プログラミング学習初心者の私は、CSSの "scroll-behavior" プロパティを使えば簡単にできるという情報を入手しました。

そこでさっそくこのブログ(はてな)で試してみました。

 

しかしどうしたことでしょう?

何をどうやってもなめらかにスクロールしてくれません。

老眼の目を凝らしてスペルミスを探したり、1行で書いたコードを3行に分けてみたり。

ブラウザによっては対応していないものもあるということなので、クロームとエッジと Safari で試してみましたが結果は同じでした。

 

「さては、はてな様の提供する高性能なプラットフォームには、かようないかがわしい小細工をカットするスペシャル機能が備わっているに違いない」

そう考えた私は Visual Studio Code で簡単なテストページを作って実行してもみました。

でもやっぱり動きませんね。

 

途方に暮れて日も暮れて、パソコンに悪態をつき、キーボードに罵声を浴びせた挙句、このブログに泣き言を綴っています。

 

まだまだ勉強が足りませんね。

でもコーディングって楽しいな!

 

 

プログラミング学習中のみなさん、アルゴリズムうつに御用心!

突然ですが、あなた、「アルゴリズムうつ」という病をご存知ですか?

えっ、ご存知ない?

 

それもそのはず。

私の造語ですから。

 

 

 

最近の私はなんだか体調が優れない。

気分の落ち込んだ日が続いています。

「コロナうつ」や「冬季うつ」という言葉も耳にすることが増えた昨今、ついに私も罹患してしまったのでしょうか?

 

はたまたこれは男性更年期障害というやつか?

テストステロン値が下がっているのではないか?

日光を浴びながらスクワットでもやらなければ、などと鬱々と悩む日々。

 

そんな折、はたと気付いたのです。

これは「アルゴリズムの勉強に疲れているせいだ」と。

 

実はこの1ヵ月ほど、私は福嶋宏訓先生の導きのもとアルゴリズムの学習に励んでいるのです。

その結果、脳がいわば筋肉痛のような症状を呈していたのです。

今まで気分や感覚だけを頼りに生きてきた私が、明晰で論理的な脳に作り変えようと奮闘する過程で発生した筋肉痛。

 

福嶋先生はその著書の中でこうおっしゃっています。

(略)この集中ゼミでは、皆さんの頭の中に、アルゴリズムを考えることができる思考回路を作ろうとしています。手作業をどのようにしてプログラムに置き換えていくか、自分でとことん考えてみないと思考回路ができません。

(『うかる! 基本情報技術者 午後・アルゴリズム編 2021年版』より)

 

また、こうも述べておられます。

夢に出てくるくらい、とことん考えるんだ! 自分の頭で考えれば考えるだけ、力がついてくるよ

(同)

 

そんな先生のお言葉に従って、悪夢にうなされるほどの戦闘を繰り広げた結果「アルゴリズムうつ」を発症してしまったのです。

脳が筋肉痛を通り越して複雑骨折を起こしたのです。

 

流れ図や擬似言語と格闘し、変数だの配列だの添字だのの攻撃を受けて、私の精神は大きな損傷を負いました。

なにせ敵は「トレース」や「ループ」や「サブルーチン」といったカタカナ、「INT」や「Mod」や「Max」といった英字、「<」とか「>」とか「=」のような記号など破壊力のある武器をそろえています。

そしてまるで電磁波攻撃のように、こちらがそれと気付かぬうちにダメージを与えてくるのです。

 

仕事で心身共にヘトヘトになり、疲れ果てて帰宅した私が何をしているのか?

それは癒しや安らぎとはほど遠い精神の苦行。

アルゴリズムの学習なのです。

本当なら湯舟に浸かってリラックスしたり、アロマを焚いたりショパンを聴いたりゴッホの画集を見たりして精神の安定を図りたいところ。

そんな時に私は「絶対にやっちゃいけないこと」をしていました。

アルゴリズムの学習です。

 

これほど脳を痛めつける自傷行為が他にあるでしょうか?

罠の仕掛けられた迷路にみずから飛び込んで迷い込み、ネズミのように駆け回って疲労困憊し、出口を見出せない自分への劣等感に打ちひしがれてテストステロン値をゼロにまで下げているのです。

 

天才プログラマーになるという私の希望は遥か彼方の彼方の彼方。

儚い夢の中の蜃気楼の中の霧。

 

やがて参考書の文字を追う目が焦点を失い、本当にどこか病気なのではないかと不安に駆られるほどの急激な睡魔がやってくる。

読んでいたページにしおりをはさむ指の力さえなくした私はベッドに倒れ込み、心の中の他人が口々に叫ぶ "You lose" "You lose" という大合唱を子守唄に、泣きながら眠りに落ちるのです。

 

こんな毎日を繰り返していると人はどうなるか?

「アルゴリズムうつ」行きの列車に乗せられて終点まで直行です。

 

 

 

私は今「選択ソート」を学習しています。

5個のりんごを重さの軽いもの順に並べ替えるやり方を学んでいるのです。

 

アレ? 今笑い声が聞こえたぞ。

誰だ、笑うヤツは?

空耳かな?

本当に難しいんだぞ。

 

参考書の著者や出版社は、本の冒頭に使用上の注意を書いておかないと読者から訴えられかねませんよ。

「1日に1ページしか読んではいけません」と。

「3分考えて分からなければ休憩しましょう」と。

「用法、用量を守りましょう」と。

 

錆びついた私の頭では理解に時間がかかりますが、正しいアルゴリズムの持つ美しさ、無駄をそぎ落とした論理の清潔さを何とか自分のものにしたくて、学習を断念することができません。

アルゴリズムうつに用心しつつ、気長に勉強を続けようと思います。

「アルコーリズム」なら得意なんですけどね! ってなんのこっちゃ?

 

 

私が使用しているのは2021年版ですが、ここでは最新版をご紹介しておきます。

基本情報技術者試験を受けるつもりがない方も、アルゴリズムの学習にお勧めです。

JavaScriptのコールバック関数が理解できない

最近Progate(プロゲート)というサービスを利用してJavaScriptを勉強しています。

プロゲートのことは結構気に入っているのですが、今日はちょっと言わせてもらいますよ。

 

 

 

「コールバック関数」が分からないじゃないか!

 

何度繰り返して説明を読んでも理解できません。

「今まで学習してきたことが十分に理解できていないからではないか?」

そう考えて最初に戻ってじっくりと復習しましたよ。

でも分かるようにはなりません。

「理解できないままでもとりあえず先に進んでいけば、後になって分かるようになるのでは?」

そう考えて先に進んでもみました。

でも分かるようにはなりません。

 

他のジャンルの学習においてはいざ知らず、プログラミング言語の学習では「やっているうちに何となく分かってくる」とか「場数を踏めば理解できるようになる」というようなことは起こらないでしょう。

「分かる」か「分からない」かのどちらかであって、「大体分かる」というような曖昧な理解とは無縁の世界だと思いますよ。

 

私は途方に暮れ、学習は頓挫してしまっております。

 

理解できない原因は何でしょう?

「お前の頭が悪いからだろ」ですって?

その可能性については私自身もよく検討してみました。

えぇ、よーく検討してみましたとも。

 

その上ではっきりと言わせてもらいます。

「それは違う」と。

 

プロゲートの説明が不十分なんですよ。

教え方が不親切なんです。

 

プロゲートは初心者向けのサービスを提供しているくせに、このコールバック関数の説明のおそまつさは何だ?

こんな説明で理解できる頭脳の持ち主なら、NASAにだってメンサにだって入れるだろうよ。

 

それとコールバック関数を使って具体的に何ができるのか例を示してもらいたいですね。

パズルでも解くみたいに記号やアルファベットをひねくりまわして、頭の体操をしてるんじゃないんだぞ。

脳トレのためにやってるんじゃないんだ。

「こういう部分でコールバック関数が使われています」

「こんな場面で役に立っていますよ、外からは見えないけれども」

っていうふうに教えてもらいたいものです。

 

「つべこべ言わずにまずはコールバック関数を覚えろや。どんな風に使うのかはおいおい分かってくるわ」

ってそんな考えですか、プロゲートさん?

 

それにしても、こんなややこしい規則にしたがってコードを書かなければコンピューターに指令を与えることができないんでしょうかね?

できると思いますよ、きっと。

できるでしょ?

もっともこれはプロゲートの責任ではありません。

JavaScriptなんていう未熟で下等な言語を作った人間に対して言ってるんです。

もっとよく考えてプログラミング言語を作りなさいと。

 

それともう一つ気に入らないのが「引数」ってヤツ。

これなんて読むかご存知でしょうか?

「ひきすう」って読むんだそうですよ。

「いんすう」かと思ったら「ひきすう」だって。

なんじゃそれって思っちゃいましたよ。

一ぴき、二ひきってヒキガエルの数を数えてるんじゃないんだぞ。

業界用語っぽく気取っているつもりなのかもしれないけど、盛土のことを「もりど」って読んだり、首長のことを「くびちょう」って言うみたいで、私の繊細な神経では耐えられないのです。

湯桶のことを「ゆとう」と湯桶読みするのはまだ許せるんですけどね。

「ひきすう」なんて名付けたヤツ、翻訳したヤツ出て来いってんだ。

プログラマーっていう人種は算数はおできになるのかもしれないけど、どうやら日本語はそうじゃないみたいですね。

おっとっと、こんな言い方をするとプログラマー差別になっちゃいますかね、失敬失敬。

 

プロゲートはなぜ引数を「ひきすう」と読まなければならないのかの説明をするべきですよ。

「この読み方が滑稽であるという意見には当社も異論はないのですが、もうどこかの誰かがそのように決めてしまったことなので、ここは一つ御了承ください」などの注釈があれば、怒りも多少治まるってもんなんです。

 

 

 

ここで私からプロゲートさんに3つのアドバイスをさしあげましょう。

顧客満足度を高めたいならば改善するべき3点を無料で教えてあげるんですよ。

 

1.コールバック関数をメンサ会員以外の人にも分かるように解説。

2.コールバック関数を使えば何ができるのかの説明。

3.「ひきすう」という下品極まりない読み方についての釈明。

 

プロゲートは今すぐ社内会議を開いてこれらの問題について協議しなさいな。

ただ、こんな内容の会議になっちゃ困りますよ。

 

「ユーザーから苦情がきてるぞ。説明がヘタクソで理解できないって」

「えぇ? この説明で分からない人っているんですか?」

「それがいるんだよ」

「一番理解力の低い層でも理解できるように開発したつもりなんですけどね」

「まだ下がいるんだ。我々の想像力の及ばないほどの下が」

「サルでも分かるように作ったんだけどなぁ」

「サルは結構頭がいいからね」

「タヌキでも分かるようにしなきゃ」

「ほっとけよ、そんなヤツ」

「50のオッサンだとよ」

「幼稚園からやり直してもらうしかないよな」

「ハッハッハッ」

「ヒッヒッヒッ」

「どうせ無料会員のくせに」

「有料会員なんだってさ」

「金返せとか言って騒いでるらしいよ、ブログで」

「そんなクソブログ誰も読んでねえって」

「ハッハッハッ」

「クレーマーだろ」

「ヒッヒッヒッ」

 

悪かったなクソブログで。

とりあえずプロゲートのことは全体的には気に入っている。

だから分からないところはネットで調べたり本屋で参考書を立ち読みしたりして、理解できるようになったらまたプロゲートに戻って来ようと思っている。

 

でも「じゃあそれでOKじゃん」なんて思わないでくださいよ、プロゲートさん。

それじゃああんたたちの負けなんですよ。

自分のところのサービスで全部理解してもらえるようにしようという気概を持ってもらいたいものです。

その上で「さらに深く学習するのであればこういうものもありますよ」と優れた参考書籍やサイトを紹介するくらいになってもらいたい。

今私がやっていることは「さらに深い学習」なんてもんじゃない。初歩の初歩、基礎の基礎をやってるんだ。

その基礎が理解できない。

そんな馬鹿げたことがありますか?

説明が足りないんですよ。

ちゃんと説明しなさいよ。分かるように。

この先プロゲートで新しいことを学ぶたびにネットを漁ったり本屋へ繰り出すなんてことをしなきゃならないようじゃ、おたくの教材を使っている意味ないんですよ。

 

まあ、あまり一方的に相手を責めるのはフェアじゃないとも思う。

オレの方にも勉強方法を見直す余地はある。

たとえば、そうだね、酒を飲みながらじゃなくシラフで勉強することも今後は試してみようかな。

ここは公正を期すために言っておきましょう。飲みながらやっていると。ヒッヒッヒッ。オレは公正な人間だからね。

ただ欲を言えば、オレは飲みながら勉強するのが好きなんだから、酔っ払ってても理解できるようにサービスを進化させてもらいたいですね。

つまり「酔っ払った犬」にでも分かるくらい嚙み砕いて説明してくれと。

プログラミングはハイボールと相性がいいんだから。

 

じゃあ、今日はこれくらいにしておくか。

愚痴ってるヒマは無いんでね。

コールバック関数の勉強をしなきゃ。

 

 

 

サッカーのPK戦を観て考えたこと

2020東京オリンピック。

男子サッカー日本代表は、準々決勝のニュージーランド戦において延長戦でも決着がつかずPK戦にもつれ込みました。

 

PK戦ほど見ていて苦しい気持ちになるものはありません。

心臓に悪くて見ていられない。

 

 

 

一体誰があんなに非情で冷酷なルールを作ったんだ?

「問答無用」と言わんばかりの残酷さ。

そしてその残酷さと表裏一体の単純明快という潔さ。

ドライアイスで火傷するような状況です。

選手たちの胸の内はいかばかりでしょうか?

私などには想像もつきません。

 

あんな緊張感の中で自分の人生を生きたことが私にはあるだろうか? 

と自問せずにはいられません。

 

思うに私は一発勝負を好まないタチだ。

話すよりも書く方が好きなのも、つまりは訂正、修正、推敲が可能だからなのです。

人が話すとき、一度口から出た言葉はもう取り戻すことはできないから。

 

料理を作るときでも焼くよりも煮る方を選んでしまう。

焼くのは一発勝負。焦がしたものは元には戻せない。

しかし煮込み料理ならどうだろう。

味見しながら少しずつ調味料を足していくことも可能だし、濃ければ薄めることだってできる。

 

私はこのように一発で決めることに怯え、「保留」という技法を適宜使いながら、失敗しないように少しずつ整えていき、この辺りで良しとしようかというところでどうにか幕引きをする。

そんな生き方をしてきたのです。

 

ブログの記事を書くときも同様です。

一気呵成に書き上げて公開までもっていくなんていうことは考えられません。

書いては消して書いては消してを繰り返し、語句を差し替えたり段落の順序を入れ替えたり、表現を変えてみたりやっぱり元に戻したり、チマチマチマチマ、グチグチグチグチやってやっとこさ出来上がり。

 

それでもまだ公開する決心がつかず、日を置いてから再び読み返して、また訂正して、不安材料を全部消してからなんとか自分を安心させて、「えーいっ」と勢いをつけて公開ボタンを押すのです。

 

ようするに怖がりなんですね。

ブログやTwitterやインスタグラムなどでポンポンポンポン投稿できる人が本当に羨ましい。

いや、本心ですよ。ほんのちょっぴり嫌味も混じってますけどね。

イソップ寓話にある「酸っぱい葡萄」の話と同じで、自分にないものを持っている人への妬みからちょっと皮肉を言ってみたかったのです。ごめんなさい。

 

そんな私ですから、スポーツ観戦でも一発で勝負がつくものよりも何回かチャレンジできる競技の方が安心して見ていられます。

 

私には一発勝負に耐えられるだけのメンタルがない。

人には得手不得手がありますしいろんな性格があっていいとも思いますが、私のこの性格は明らかな欠点であると自分では考えています。

 

人生における重要な決断を先送りにして、白黒つけるのを後回しにして、ずっと保留にしたままで、来年私は50歳になります。

モラトリアムのような気分の未熟な中年の出来上がりってわけです。

 

「オレも若い頃はもっと勇敢だった」なんて少しセンチメンタルな気分に襲われました。

「若い頃は」などという語句は口にはしないし、心にも浮かばないように用心していたはずなのに。

 

私はもうそろそろ、その場その場で決着をつけるという「待ったなし」の状況に自分をもっていかなければならない。

さもないと「死ぬまで保留」という生き方をズルズルとしてしまいそうです。

 

 

 

私が結婚していないのも、まぁ理由はいろいろあるのですが、「今はまだ決めない」「でもいつか決めるかも」「決めるだろう」「決めるはず」「でも今じゃない」というように、決定を先送りする性格も一因だと考えています。

もっとも相手がいないということが最大の要因なのですが。

 

考えてみれば私たちの毎日が常に一発勝負、真剣勝負であるべきなのではないか?

日常生活のさまざまな局面で留保したり後回しにしたりしていることがある。

それを止めてその瞬間瞬間にケリをつけていく。

そんな小さな決断の連続があってこそ、その先で大きな決断も可能になるのではないか。

 

ちまたでよく耳にする「選手から勇気をもらった」というような声に私は常々違和感を覚えていました。たんなる「気分」の表明のように思えたからです。

しかし今ここで、先日のPK戦を戦った選手たちに「私も勇気をもらった」と正直に告白しておきましょう。

たんなる「気分」ではなく、自分の中で持続して燃え続ける炎のように実体のある「意思」を自覚しながら。

 

PK戦という多分に運にも左右されるような危険な瞬間に、冷静に自分を律して挑んだ選手たちに敬意を表します。

そしてこんな私にもテレビの画面越しに彼らの勇気が宿りますように。

 

 

なんだか今日は、いつにもなく感傷的な、思春期の学生の日記みたいなものを書いてしまいました。

普段なら公開せずに下書きのまま眠らせておくところなのですが、今日は一丁度胸だめしだ。

なけなしの勇気を奮って、思い切ってシュートだ。

 

入れ!

 

 

 

プログラミング言語ってなんでこんなに種類が多いんだ? 1つだけでいいだろ!

 

目次

 

以前の記事でプログラミングの勉強を始めたことを書きました。

 Progateというサービスを利用して、マークアップ言語であるHTMLとCSSを少し齧り始めた話をしたのでした。

 

www.arakawahikaru.com

 

そんな私は最近、他の言語も学ぼうと思い情報を集めています。

 

そこで問題発生です。

「プログラミング言語って一体何でこんなにたくさんの種類があるんだ?」

「1つか2つにしろよ!」

という怒りにも似た疑問が湧いてきたのです。

 

 

多過ぎるプログラミング言語

よく見聞きする言語だけを少し挙げてみても

Java、Python、C、C++、C#、Ruby、PHP、JavaScript、Swift、Go、Kotlin、R

等々ふざけるなっていうくらいの種類があるではないですか?

 

ちょっと調べてみたところ、分類の仕方にもよるのかもしれませんが250以上の言語があるそうですよ。

 

一体私は何の言語を学べばいいのでしょう。

 

誰かプログラミングに詳しい人いますか?

いるならば、私のこの質問に真っ向から答えてもらいましょう。

 

「なんでプログラミング言語は何種類もあるのか?」

「何でもできる最強の言語が1つあればいいのではないか?」

 

プログラミング初心者の私が誤解を恐れずに言えば次の通り。

すなわち「改善」「改良」の名の下に勝手に新しい言語を乱造する人たちがいるからなのです。

 

GoogleはGoなんていう言語を使い始めたり、AppleはSwiftを開発したり、Kotlinなどという「何て読むんだよ?」っていう言語もできた。

「オレたちが実現しようとしていることは既存の言語では不可能なんだ」とでも言いたいのでしょうか?

「不備を改善したもっと使い易い言語を発明してやる」っていうことでしょうか?

 

新しいプログラミング言語を作ってやろうなどと企てるなんて、なんと不遜な連中なのでしょう?

既存の言語に対するリスペクトの気持ちがないのでしょうか?

好き勝手に次々とプログラミング言語を作るんじゃねえ。

許可は取ったのか?

誰にって?

オレにだよ。それと世間の皆さんにだ。

自分の名誉欲だか自己満足だかのために勝手に言語を作って、オレたちにもそれを学ばせようだなんて、どれだけ厚かましいんだ。

プログラミングスクールが学習コースの数を増やして儲けられるように、新しい言語を提供してスクールから幾らか貰ったのかい?

 

などと、ちょっと息巻いて騒いでしまいました。すみません。

 

プログラミング言語と自然言語

プログラミング「言語」という言い方に惑わされて、日本語のような自然言語に対しての考え方と混同してしまいました。

 

日本語の世界においても既存の言葉を用いて表現する努力をせず、造語や新語を作って悦にいっている人たちがいます。

「文化人」と呼ばれる人たちの中にもいます。

日本語の弱点を補って、日本語を改良して、より完成された言語に近づけてやろうとでも思ってるんでしょうか?

偉そうな人ですね。

私に言わせれば傲慢な輩です。

そんな人たちを見るにつけ苦々しく思っていたのです。

 

そんなわけでプログラミング「言語」についても同じように感じてしまったのです。

しかしそもそもプログラミング言語自体が人間が人工的に作ったものなのですから、それに手を加えることは一向に非難には値しませんね。

 

プログラミング言語は道具である

プログラミング言語なんていうのはたんなる道具なのだからどんどん改良して進化させていけばいいという考えも理解できます。

企業同士で製品の開発競争をするように、製品開発のための道具の開発も自由にすればいいでしょう。

だけど新しい言語として開発しなくても、元から有る言語をアップグレードして使うこともできるのではないでしょうか?

「新しい言語ではできて、既存の言語では絶対にできないこと」というものがあるのでしょうか?

「既存の言語でもできるのであればその言語でやりなさい」と言いたい。

「もっと頭を使って、工夫しなさい」と言いたい。

「こんな言語じゃダメだ。不便だし役に立たねぇ」なんて言って、自分たちに都合のいい言語を作って「どうだ」なんて得意がっているのかもしれませんが、それは勝利ではなく敗北のように私には見えますよ。

 

願わくは、めいめいが独自にプログラミング言語を作るのではなくて、開発者同士で話し合って作ってもらいたいものです。

 

ウェブサイトを作るにはこの言語、アンドロイドアプリの開発にはこの言語、機械学習にはこの言語、ビッグデータの処理にはこの言語だなんて、不便だと思わないのでしょうか?

 

プログラミング言語の淘汰を加速するべき

例として挙げますが、PHPでもできてRubyでもできるのであればどちらかは要らないんじゃないでしょうか?

新しい言語を開発する人というのは、将来的に言語の淘汰が進めば、自分の作った言語が生き残って主流になることを当然目指しているのでしょう。

だったら旧言語を圧倒的に凌ぐようなものを作ってもらいたい。

たいした差別化ができていないから「あれを使う人」と「これを使う人」とに二分して、言語の「不必要な共存」が起こってしまうのです。

選択肢が豊富なことはこの場合に何の利益にもならない。

HTMLのように迷うことなくそれ一択という状況が望ましいのです。

多様性の意味を勘違いしているとしか思えないですね。

HTMLの亜流品のような言語を作って、「ウェブサイトに文章を書くのにどの言語を使おうかな」なんて迷わせるような輩がいたら、本当に怒りますよ。

もし開発するのなら、HTMLを旧石器時代の遺物のように時の彼方に葬り去るくらいの画期的な言語だけにしてください。

 

 

他業種にもある規格を統一しない例

ちょっと余談になりますが、自動車のホイールを車体に取り付けるためのナットがメーカーによって異なるのをご存知でしょうか?

例えばトヨタとホンダではナットの六角面のサイズが異なるし、座面の形状も違います。トヨタと日産ではピッチが異なります。

トヨタ車にホイールを取り付けるときに、日産のナットじゃ締められないんですよ。

ボルトとナットのネジ山の間隔が違うんです。ギザギザの部分が嚙み合わないんです。

どういう経緯でそうなったのかは知りませんが、いろいろなメーカーの車を扱う整備工場などでは不便だと思いますよ。

統一しない、できない理由がきっとあるはずですので調べてみようと思います。

各メーカーにこだわりがあって絶対に譲れないのでしょうかね?

 

自然言語はただの道具ではない

地球上の自然言語を統一した方がいいとは全然思いません。

東南アジアの山岳民族の言葉もアフリカの少数民族の言葉もみんな尊い、人類の財産だと思います。

世界中の人々が自由に意思疎通できる1つの言語ができた方が便利になることは想像できます。しかし自然言語はただの道具ではないのです。

 

「言葉はコミュニケーションの道具」「思考するための道具」などと考えている人もいるかもしれません。

確かに道具としての側面もあります。

しかし言葉はただの道具ではなく、何かのための手段としてのみ存在しているのでもない。

言葉を使うということ自体が人間としての存在理由でもあると思います。

 

「脚は人間が移動するための道具だ」などと言う人がいるでしょうか?

それは「脚」の存在意義の中の分かり易いある一点を指摘したに過ぎない。

脚はその上に乗っかっている人体を移動させるための道具であるだけではない。

脚が交互に前方に踏み出すことによって人体を前進させる。これを「歩く」と我々は呼んでいますが、歩くことは移動の手段であるだけではなく、それ自体が目的でもあるのと同じです。 

 

未来のプログラミング言語は1つになる

将来的にはプログラミング言語は1つになるべきだと思います。

汎用性が高く、プラットフォームを選ばず、あらゆることができ、可読性に優れ、高速で動き、安全性が高く、学習も用意な言語。 

 

そんな言語は作れないのか? いや、作れるでしょう。

ぜひ作ってもらいたいものです。

 

それができるまで、私はJavaScriptとPHPを勉強しようかなと考えています。

 

以上、プログラミングを全く知らない私の暴論でした。

プログラマーのみなさん、専門家のみなさん、「無知な人間が何言ってやがる!」なんて、怒らないでくださいね。