荒川光のブログ

日々の生活のなかで感じたこと、思ったこと、考えたことを気軽に書いていくブログです。

猫はどうして飼い主の身体で爪とぎをしないのか?

今回は私がずっと疑問に思い続けている猫の不思議の1つについて書いてみようと思います。

 

それは何かと言いますと、猫は爪とぎ用のダンボールはもちろんのこと、イスや壁や柱などあらゆるところで爪をとぐにもかかわらず、人間の足やひざやふとももなどでは絶対に爪とぎをしないということです。

 

「えっ、うちの猫は私の脚で爪をとごうとしてくるよ」なんていう人もいるのでしょうか? そんな恐ろしい猫を飼っている方、お気の毒さまです。

 

うちの白黒猫ピヨピヨ(仮名)は人体で爪をとごうとはしません。ですのできっと他の猫もそうに違いないという勝手な仮定に基づいて以下の文章を書いていきます。悪しからず。

 

ピヨピヨは人の身体で爪とぎをしないばかりか、人の身体に爪を立てることも遠慮しているのが分かります。

 

いくつか例を挙げると、私のひざの上に乗っている猫がバランスを崩して下に落ちそうになった時、ひざに爪を立ててグッと力を入れれば持ちこたえることができるはずなのにそうしないのです。

重力に逆らってふみとどまろうという意思を見せずに、なすすべもなくイスの下にストンと落ちてしまいます。

 

また、イスに座っている私のひざの上に猫が飛び乗ってくる時にも、ひざに爪を立てて腕力を使って登ってくるようなことはありません。

爪を格納した安全な肉球の状態で、軽くポンと登ってくるのです。

 

しかし壁の少し高い所にあるお気に入りの出窓に登るような時には、後ろ足のジャンプ力、そして鋭い爪と前腕の力という素晴らしい身体能力を見せつけて、1.2mもある出窓へ鮮やかに登ります。

 

この違いは一体どういうことなのでしょうか?

 

人間の身体を、イスや柱ではなく「痛みを感じる生き物の身体」として区別できているということではないでしょうか?

 

もしそうだとすると、私は猫の知能についての今までの固定観念を改めなければなりません。

 

私は猫についても動物学についても何の知識もありませんので、あくまで素人の考えにすぎませんが、私は猫には「生命」という概念などないだろうと考えていました。

猫は自分自身のことを「生きている」と自覚していないだろうし、したがっていつか「死ぬ」存在であるということも知らないだろう、と私は考えています。

 

では猫は何を考えて生きているのか?

何も考えていないのだろう。

と思っています。

 

そんな猫が私の脚を柱とは違うものとして認識している。もちろん言葉で認識しているわけではないでしょうけれど、ちゃんと違いを分かっていて、人体に対しては扱い方を変えているのです。

 

私の脚に爪を立てたら痛いだろうとか傷つくだろうと考えて、猫は私に気を使ってくれている。

だからこそ、ひざの上からずり落ちそうになっても抵抗もせずにそのまま落ちてしまう。

そう考えると、ひざの上からツルンと滑り落ちてしまうピヨピヨがいっそう愛おしく思えてきます。

 

もちろん落ちてもケガなどしませんし、また登ってくるだけのことなのですが、これが人のひざではなくてソファーの端っこだったなら、爪を立てて踏ん張ると思うのです。

 

でも、もしも私がビルの屋上に座っているとして、私のひざからずり落ちたら地上まで落下して命がないというような場合であれば、猫はひざにしがみつくのでしょうか?

 

そんな場合であれば、たとえひざの肉や骨に爪を突き刺してでもピヨピヨには踏ん張ってほしい。

 

 

猫って運動神経が良いだけで、頭の方は今一つなんて思っていましたが、もしかするととても賢くて優しい動物なのかもしれません。

あんなに可愛い格好で眠ったりするのも、ひょっとしたら計算されたポーズなのでは、なんて思えてきます。

 

いろいろ思い返してみると、人間だったら我慢していないようなことも、ピヨピヨは何事もなかったかのように知らない振りをしてくれているのではと思うことが多々あります。

 

飼われているから仕方なく服従しているのではなく、私の器の小ささや優しさの足りないところまですべて見抜いた上で、私のことを許してくれているのではと、いつもの場所で丸くなって寝ているピヨピヨを見ていて思っちゃいました。 

猫はシャンプーされたくない! 嫌がるなら洗わなくてもいいでは?

たいがいの猫はシャンプーされることを嫌がるものだと思うのですが、飼い主のみなさんはどうされているのでしょうか?

 

うちのピヨピヨ(仮名)の場合は子供の頃に2、3度洗ったことがあるのですが、とても嫌がりました。ですのでそれ以降は洗うのあきらめて、もう6年ほど洗ったことはありません。

 

小さい頃から定期的にシャンプーをして慣れさせていけば、しだいに嫌がらなくなるのかもしれませんが、まるでこの世の終わりかというくらいに泣き叫び暴れるピヨピヨを、押さえつけてまで洗うことはとても辛くて無理だったのです。

 

ピヨピヨには自由に外出させてもいましたが、生まれながらの綺麗好きで、汚れて帰ってくるようなことは1度もありませんでした。

シャンプーをしなくてもいつも綺麗で、また体臭もありません。毎日入浴している私の方が汚いくらいです。

 

 

テレビなどでアフリカの野生動物などを見ていても思うのですが、動物は風呂に入ったりしないのに、みんなきれいです(地獄谷温泉の猿は入りますが)。

ライオン、ヒョウ、キリンなどもそうですし、鳥もきれいです。

カモのように水中に潜って魚を獲るような鳥がきれいなのはもちろんですが、水に潜らない鳥でも汚れのない羽や真っ白な胸毛をしています。近所の川でよくみかけるサギも誰かに洗ってもらったのかというくらいに白いです。

 

人間だけが毎日せっせと体中を洗わないと、野生動物と同程度の清潔感を維持できないのはなぜなのでしょうか?

野生動物も実際に近くで見ると汚れていて臭いのでしょうかね。

 

それにしても猫にとって、体を水でぬらされ、強い匂いのする洗剤で毛の脂分を取り去られるというのは一体どれほどの恐怖なのでしょう? ちょっと想像するのが難しいくらいです。

何のために自分が何をされているのか、猫は理解することができないのですからなおさらです。

 

またシャンプーの後には十分なすすぎも必要になります。

毛にはもちろんのこと、皮膚の上に洗剤成分が残っていると肌荒れや皮膚病の原因にもなりかねませんし、毛を舐めた猫の体内に洗剤成分が入ることも心配されます。

しかし顔や耳のまわりにシャワーのお湯をかけられることは猫にとって拷問のような苦痛でしょう。またおなかやしっぽ、肛門付近を十分な量のお湯で洗い流すことも、猫が嫌がるため非常に難しいのです。麻酔をかけて眠らせている間に洗うのならば可能でしょうが。

 

風呂場から連れ出された猫は、今度はドライヤーという責め苦を受けなければなりません。その内容は強風と騒音です。

ご存じの通り、猫は大きな機械音をとても恐れます。掃除機をかけ始めるやいなや、大慌てで部屋の隅に逃げ込んでしまうくらいです。

その猫が耳元に大音量とともに熱風を吹きつけられ、手で激しく毛を撫でられ続けるのです。毛の中に空気を入れるため、背中をしっぽから頭の方へ向かって逆撫でされます。

おなかの柔らかい肌に熱風を受けて「熱ッ」と感じることだってあるでしょう。

本当につらい30分間だろうと思います。

 

洗い終わった後の猫はぐったりと疲れてしまい、免疫力も下がり、おなかを壊したり病気にかかったりするリスクが高まるかもしれません。

 

毎月こんな仕打ちをしていると確実に猫の寿命を縮め、飼い主に対する信頼感も損なってしまうのではないでしょうか。

猫にこのような苦しみを与えてまできれいに洗いたいというのは、猫のためというよりも人間のエゴのように私には思われるのですが、どうでしょうか?

 

エゴだなんてちょっときつい言い方をしてしまいましたが、恐怖に怯えて鳴き、爪を剝きだして暴れる猫ではなく、陽だまりで気もち良さそうに伸びをして、あくびをしている猫のそばに私はいたいと思います。

 

 

春から初夏にかけて大量に毛が抜けた後のピヨピヨは、少しスリムになり、新しく生えかわった毛は白さが増したような気がします。

今までの毛は薄汚れて、少し黄ばんでいたのだとその時に気づくのです。

 

でも品評会に出すわけでもあるまいし、うちのピヨピヨは漂白したみたいに真っ白でなくてもかまいません。それに、体表面積の3割ほどは黒いのですから。

猫が毛玉を吐いた! こんな塊が胃の中にあって体は大丈夫?

猫のピヨピヨ(仮名)を飼っていることは以前に書きました。

今日はその猫が毛玉の塊を吐いた話をしようと思います。

 

その前に猫の紹介を少しだけ。

名前 ピヨピヨ(仮名)

種類 不明

毛色 白黒のパンダカラー 面積比(白:黒/7:3)

雌雄 メス(避妊手術済み)

体長 約40cm(しっぽ部分除く)

体重 約5.0kg

年齢 約7歳

 

ピヨピヨが毛玉を吐いたことは過去にも1、2度あったのですが、ここまで大きな塊だったことはなかったので、正直に言ってびっくりしてしまいました。

計ってはいませんが、長さが10cm弱、直径は1.5cmほどはあったでしょうか。

茶色い円筒形をしていて、フローリングの床の上にそれは落ちていました。

こんなところでピヨピヨがフンをしたのかと一瞬ギョッとしましたが、近づいてよく見てみるとそれはフンではなく、胃液をたっぷりと含んだ毛玉だったのです。

 

この現象に先立つこと3分ほど前、ピヨピヨは2本の茹でたモヤシを食べたのでした。

どうやらそのモヤシが胃を刺激して、毛玉嘔吐につながったものと思われます。

 

私が誤って皿からテーブルの上に落としてしまったモヤシを1本、ひざの上のピヨピヨが恐る恐る手を伸ばして取ろうとしたためそれを与えたところ、なんとそれを食べたのです。

 

私は猫のエサについての無知ゆえに、変なものを食べさせてはいけないという考えから市販のキャットフード以外には何も与えないのが常でした。

しかしモヤシ1本を食べたことを嬉しく思った私は、もう1本くらいいいだろうと思い、2本目を与えました。

 

3分後。

ピヨピヨはケッケッケッっという、クシャミのような咳のような異様なうめき声を発しました。

その時はあまり気にもしていなかったのですが、しばらくして何気なく猫がいたあたりを見てみると、「ワァーッ」。

という次第です。

 

思い返してみると、過去に毛玉を吐いた時も、私は茹でたホウレンソウを少しだけ与えたのでした。

これは猫に関する雑誌で、茹でたホウレンソウを与えている飼い主の記事を読んだことに影響されてやってみたのです。

その後しばらくして、ピヨピヨは毛玉を吐きました。

 

調べてみると、猫草と総称される猫が好んで食べる草があるそうで、それを食べると胃をチクチクと刺激して毛玉の嘔吐を誘発するとのこと。

確かにスーパーの入口付近などで売られているのを私も見た記憶があります。

 

猫草に限らず野菜類でも同様の効果を発揮するのでしょうか?

野菜の種類、調理の仕方、そして当の猫との相性によるのかもしれません。

 

毛玉を吐き出したピヨピヨはその後、粗相をしてしまった子供のように少しションボリしたような申し訳なさそうな様子でしたが、しばらくすると胃の中のモヤモヤがなくなってスッキリしたのか、元気が出てきたようです。

こんな毛玉が胃の中に溜まっていたなら、さぞかし不愉快な気分だったことでしょう。

 

7年も飼っている猫ですが、今までに毛玉嘔吐を見たことがほとんどないのはどうしてでしょうか?

今まではフンと一緒に排泄されていた毛が、歳を取って排泄力が弱まったため胃に溜まるようになってきたのでしょうか?

それとも7年間かかって溜まった毛が、ここ最近になって吐き出されたとでもいうのでしょうか?

 

このアパートに引っ越してくる前に住んでいた部屋は1階だったので、夜はベランダのドアを開けて自由に外出させていたのです。

田舎なので夜間はほとんど車も通らず交通事故の心配もありませんし、いつも30分くらいで戻ってきましたので。

もしかしたらその外出の際に雑草でも食べて、外で吐いていたのかもしれません。

 

今住んでいる部屋は3階なので、ベランダからの転落が心配でベランダには出しません。また玄関からも、猫が迷わずに戻って来られるか不安なため出さないようにしています。

猫が平面上の方向感覚を持ち合わせていることは経験上分かっているのですが、階層の感覚が備わっているのかどうかは不明で、もし猫が別の階に移動してしまった時に、3階の自分の部屋まで戻って来れるのかどうか分からないからです。

加えてピヨピヨは非常に美しく、誘拐の危険もあるため、夜間も多少の人通りのあるこの町では外出させられないのです。

 

それにしても、胃の中にこんなに毛が溜まってしまうのは猫の健康上良くないのではないでしょうか?

さほど毛の長くない猫ですが、今の時期は毛が大量に抜けるため困ったものです。

また私に似て極度のきれい好きのため、毛づくろいには大変な念の入れようなのです(誰に見せるわけでもあるまいに)。

 

毛玉をフンと一緒に排泄させる成分を含んだエサもあるみたいですので、よく調べて試してみようとも思います。

そういえばキャットフードのパッケージにそのような効能を謳っているものを見た記憶がありました(今までの不注意、不勉強を反省)。

また今後は時々モヤシを食べさせて毛玉を吐かせようと思います。 

 

さて、今まではろくにブラッシングをしたこともありませんでしたが、今夜はピヨピヨ用に買ってきたブラシで、毛づくろいの手伝いでもしましょうかね。

ランニング中にすれ違うランナーには挨拶をした方が良いの?

時々ランニングをしています。

 

家のすぐ近くに本当に無料で利用していいの? っていうくらい美しい河川敷があって、気が向いた時に、気分に応じた速さで、気分に合わせた距離を走るようにしています。

ですので10分間だけということもありますし、時には橋を3つも越えてずっと下流の方まで、往復1時間あまり走ることもあります。

そんなランニング生活を、三日坊主で中断したりまた再開したりしながら細く長く続けているのです。

 

ところで、そんな私の頭を常々悩ませている問題があります。

それはタイトルにも記した通り、ランニング中にすれ違うランナーや、ウォーキングなどをしている人たちに挨拶をした方がいいのかな? どうなのだろう? ということです。

 

「どっちでもいいよ、好きにしろし」という意見が多いでしょうか?

(あっ、ヤバい! 住んでいるところがバレちゃいますね! 「好きにすれば」っていう意味ですよ)

 

でも私にとっては結構な大問題で、走っている間中このことばかり考えていて、それが苦しくて走るのを億劫に感じる日もあるくらいなのです。

 

前方から人が走ってくる(あるいは歩いてくる、犬の散歩をしている)のを発見したときに私の頭にまず思い浮かぶのは、挨拶をどうしようか? なのです。

美人かな? とか、犬が吠えないかな? などの疑問はもっと後になってからです。

 

ではなぜ挨拶で悩む必要があるのかというと、中には挨拶されることを煩わしく感じる人もいるだろうと思うからです。

すれ違う人すれ違う人にいちいち挨拶されるのは面倒だと思う人もいるでしょう。また、誰にも気兼ねせずにのんびり景色を見ながら散歩したいという人もいるでしょう。

ですので私は、これから数十秒後にすれ違うであろうその人が挨拶を歓迎するタイプなのかどうか、その見極め作業に入るわけです。そしてすれ違う直前までに自分の取るべき態度を決定しておかなければなりません。

 

普段の私はどうしているのかと言いますと、基本的にはすれ違うほとんどの人に挨拶しています。

 

朝なら「おはようございまーす」と爽やかに。

昼から夕方までなら「こんにちはっ」と明るく。

夜は不審がられたり怖がられたりしてもいけませんので声は掛けません。

 

では逆に、どんな人には挨拶をひかえるかというと、以下のような人です。

地面と対話しながら走っていて絶対に顔を上げようとしない人(会話をじゃましちゃいけません)。

ヘッドホンやイヤホンで耳を塞いでいて「挨拶されても聞こえませんよー、したがって返事もしませんよー」と、挨拶してこないでオーラを出している人(音楽鑑賞のじゃまはしません)。

運動不足解消やダイエットなどが目的ではなく、本気で走っているアスリート(挨拶に答えようとすると呼吸が乱れてタイムに影響を与えることを考えると、良かれと思って投げかける挨拶は進路妨害に準ずる罪)。

何をもって本気と判断するのかという問いに対してはこう答えましょう。

すなわち、走るスピードが速い、身体つきがランナー体形、ウェア・シューズなどがファッション性よりもランニングそのものを目的としている、自分自身と闘っている真剣な表情、のうち2つ以上に当てはまる人だと。

 

例えばプールで女の子をナンパしようとしたときに(注・私はしませんが)、競泳選手のような身体つきをして、競泳用水着とゴーグルを身につけ、自分の限界に挑みながら、すごいスピードでバタフライを泳いでいる人には声をかけにくいものです。

逆に、フリルやリボンなどの泳ぎ自体にはなんら貢献しない装飾のほどこされた水着を着て、プールサイドでぱちゃぱちゃ遊んでいるような娘の方が声をかけやすいのと同じ理由です。

 

もっと気楽に走ればいいのに、周りに気を使い過ぎて一人で空回りしているだけなのでは、と考えてみることもあるのですが、私だけではなく、多かれ少なかれ他のランナーやウォーカーたちも似たり寄ったりの気持ちでいるのかもしれません。

それが証拠に、すれ違うのが苦痛なのか、私の姿を発見するとさり気なくコースを変えてすれ違わなくても済むように工夫する人もいるのです(私の勝手な憶測ですが)。

 

一体どうすれば良いのでしょうか?

そもそもランニング中に見知らぬ他人に挨拶する習慣があるのはどうしてなのでしょう? 登山をした時にも同じような経験をしたのですが、登山者同士やはり挨拶するのです。

同じ趣味を持つ人への共感や、頑張っている人への激励のためでしょうか?

またはお互いに仲間だね、という仲間意識の共有のためでしょうか?

でもそんな人でも早朝の通勤時に、駅のホームで見知らぬサラリーマンに挨拶したりはしないのですから不思議なものです。

 

いっそのこと「ランナー同士はお互いに挨拶しないことがマナーである」あるいは「ランナー同士は挨拶することがマナーである」というような一定方向の規範ができあがれば楽なのにとも思います。

そうすれば、マナーを守っていさえすれば大方の状況には対応できるのですから(もちろん例外もありますからマニュアル人間でいていいわけではありませんが)。

 

しかし結局人間関係には正解がないわけですから、はたしてこれで正しかったのだろうかとモヤモヤしたり後悔したりしつつ、模索していくしかないのでしょう。

走っていても、身体よりも 頭の方が疲れてしまうことが多いのですが、それでもこの美しい河川敷でみんなが快適に過ごせるように、経験と思考を重ねて「河川敷の人間関係学」を極めていこうと思います。

猫はどうして飼い主に背を向けてすわるのか?

猫を飼っている人に尋ねてみたいのですが、猫がすわる時、それが床の上であれソファーの上であれ自分の膝の上であれ、いつも飼い主に背を向けてすわってはいませんか?

 

私が飼っている猫のピヨピヨ(仮名)が実はそうなのです。

そのことに気づいたのは、ピヨピヨの写真を撮ろうとしたことがきっかけです。シャッターチャンスを狙ってしばらくピヨピヨの動向を観察していたのですが、一向にこちらを向いてくれません。撮ることのできる写真は後ろ姿ばかりなのです。

 

そこで私は記憶をたどってみたのですが、思い返してみても、ピヨピヨがこちらを向いてすわっている姿が浮かんできません。例外なくいつも後ろ向きなのです。

 

場所には関係がなさそうで、キッチンでも、リビングでも、寝室でもそうなのです(あれ? 3部屋もあることをそれとなく自慢してしまいましたかね? なに、築40年のボロアパートですよ!)。

 

正面から顔を見れるのは、こちらへ向かって歩いて来るときと、後ろ向きにすわったまま首をひねってこちらへ顔を向けるときだけなのです。

 

膝の上にしばしば飛び乗ってくることもあるのですが、膝の上で足ふみをしながらくるっと回って体勢を整え、居心地の良い位置で足を折ってすわり込みます。でもそのときもやはり頭が向こう向き、おしりがこちら側なのです。不思議ですね。

 

猫背の背中やしっぽのカーブを見ているのもいいものですが、たまにはこっちを向いてすわればいいのに、素っ気ないなという気持ちにもなるものです。

 

そこで、ネットで調べてみたら何か情報が得られるかもしれないと本気で考えたわけではないのですが、試しに検索してみたのです。「猫」「後ろ向きにすわる」というキーワードで。

そうしたらなんと、検索結果にたくさん出てくるではないですか。

「へえー、こんなことについてまで書いている記事があるんだ、書いている人がいるんだ」と驚くやら感心するやら。

 

インターネットってすごいですね。そして世間に人が多くて、いろんな変わった人もいて良かった。

英語やロシア語やアラビア語や、様々な国の言葉で検索できたなら、愛猫が後ろ向きにすわることを嘆いたり心配したりしている世界中の人たちの記事を、きっと読めるのでしょうね。

ベトナムの猫も同じで、スウェーデンの人も同じなんだな」なんて笑いながら。

 

 

そんなわけでいくつかの記事を見てみましたところ、猫が飼い主に背を向けてすわる理由として、大きく分類すると以下の5点ほどの記載がありました。

 

1 背後から敵に襲われる危険があるため、信頼している飼い主に背後を任せている。

2 飼い主を守ろうとして前方を見張っている。

3 動物では目を合わせるということは威嚇の意味を持つため目を合わせない。

4 おしりを撫でてほしい。

5 信頼している猫(親猫など)におしりのにおいを嗅がせる習性がある。

 

つまり飼い主を嫌っているとかソッポを向いているというようなネガティブな態度なのではなく、信頼し、安心感を抱いているがゆえの行動なのだそうです。

 

もっとも上記の理由に科学的な根拠があるのかどうかは知りません。一愛猫家の個人的な希望や憶測が広まっただけなのかもしれません。

でも同じ猫好きの私としては、ぜひともこの理由を信じたいものです。愛すべきピヨピヨが私に全幅の信頼をよせ、またけなげにも私を守ろうとしてくれているなんて(でも一体何から?)。

 

正面からのベストショットはなかなか撮れそうにありませんが、いつかふいにこちらを向いた時をみはからってパシャリとやりたいと思います。

パクチー全滅 なぜ枯れちゃったの? 原因と改善策を考える

5月に種まきをしたパクチーがついに全滅してしまいました。

発芽して、双葉のあと本葉も出て、茎も成長してきていたのですが。

収穫を楽しみにしていたのに、こんな結果になるなんて。

そこで今回は、枯らしてしまった原因と今後の改善策について考えてみようと思います。

 

原因 1

発芽率が悪く、発芽した数自体が少なかった。

 

改善策 1

種まきをする前に種の殻を割って一晩水に浸しておく。

 

ネットや書籍で予備知識を得ずに栽培に取り掛かった私が悪かったのですが、後々調べてみると、以下の事実が発覚しました。

 

パクチーの種は硬い殻に覆われていて、そのままでは発芽しにくい。なので殻を割って中の種を取り出し、その種を数時間から一晩水に浸してふやかしておくと発芽しやすくなる」とのこと。

 

発芽する総数が多くなれば、その分生き残る株も多くなると考えられます。次回挑戦するときには是非試してみようと思います。

 

でも天然の(野生の)パクチー(そんなものがあるのかどうか知りませんが)は誰もそんなことしてくれないのに育って子孫を残していることを考えると、栽培に必須の作業というわけではなく、あくまで栽培の効率を上げるためにやった方が良いという認識で良いのではないかと思います。

 

原因 2

植え替えをしたあと根付かずに枯れてしまった。

実はこっちの方が問題なのでした!

 

改善策 2

植え替えはせず、発芽した場所でずっと育てる。

 

パクチーは移植(植え替え)を嫌うということは知識としては知っていたのですが、株に影響を与えないように、根の周りの土ごと広い範囲で移動させれば問題ないだろうと考えていました。

実際そのようにしたのですが、移植後は元気がなくなり、そのまま枯れてしまうのを止めることができませんでした。

 

土の節約のために(ケチですみません)浅い土の上に種をまいて、発芽したら間引きをして、選りすぐりの株だけを深いプランターに移して育てようと考えていたのでした。

しかしパクチーがここまで引っ越し嫌いだとは知りませんでした。生まれたところで死ぬまで暮らしたいということなのですね。

次回からは、初めから深く土を盛ったプランターに種をまこうと思います。

 

あと、枯れてしまった直接の原因ではないと思うのですが、栽培中に特に気になったことは、常軌を逸した茎の弱さです。

ジョウロで優しく水をやっただけなのに、へこたれてしまう茎。ペちゃんと倒れて地面にひざまずく葉。

「何でそんなに弱っちいの?」「意地はないのか!」と思わず言ってやりたくなります。

まったく見てるこちらの心まで折れてしまいそうになるほどか弱いんですからね。

棒を立てて茎を支えた方がいいのでしょうか? 葉に水がかからないように、注射器か何かで根本にそっと水をやらなければならないのでしょうか? 

そんな方法が記載されている記事は見当たりませんでしたが、他の人はどうしているのでしょうか。

土が合っていなかったのか、肥料が足りなかったのかもしれません。酸性だとかアルカリ性だとか、植物の種類によって好む土の性質もあるそうですので、もっと勉強しようと思います。

 

まったくむずかしい植物です。抜いても抜いてもはびこる雑草がいかに強いのかが分かります。踏まれても平気ですからね、かれらは。

 

パクチーの種まき時期は3~6月と9~11月とのこと。秋になったらもう一度チャレンジしてみます。

 

   パクチーの種をまいた時の記事はこちらをどうぞ 

パクチー(コリアンダー)の種を蒔いたら発芽して嬉しかった! - 荒川光のブログ

「アナと雪の女王」から学ぶ、観客を退屈させない工夫の功罪

大ヒットしたディズニーアニメ「アナと雪の女王」を、公開から3年以上たった今になって、DVDでやっと観てみました。

視聴しての感想はいろいろあるのですが、今回はその中でも私が非常に考えさせられ、勉強にもなった点について述べてみます。

 

物語の粗筋については割愛させてください。

映画をまだ観ていない方には分かりにくいところがあるかもしれませんが、興味を持たれた方は是非実際に本作をご覧ください。

 

*国王夫妻をすみやかに、美しく死なせる手際の良さ

 

アナとエルサの両親、つまりアレンデールの国王夫妻は船旅に出るのですが、途中で嵐にあって船は沈没、夫妻は命を落とします。

これをわずか30秒ほどの映像で「説明」してしまうのです。

出発の場面、船に乗り込むシーン、嵐の海で大波にもまれる船、葬儀と遺影。

こういった5つ6つの場面を連続して映すだけで、国王と王妃が亡くなったということが私たちに知らされます。

国王夫妻はなぜ船に乗らなければならなかったのか? どこへ向かったのか? それは分かりません。またそんなことは映画の本筋に必要ではなく、国王夫妻に死んでもらうことだけがストーリー上不可欠なことなのでした。

子供の観る映画なので死の残酷さを可能なかぎり少なくし、なおかつ視聴者も納得する死なせ方として海難事故が採用されたのでしょう。

 

人の死には大小あれど苦痛が伴うものですが、映画の中ではその苦痛は表現されず、嵐の海で沈没の恐怖とともにいる夫妻も描かれません。

視聴者は死の生々しさに触れることなく「死んだ」という情報だけを安全に得て(というよりも「ゲット」して)それに続く楽しいストーリーに再び戻ってこれる仕掛けになっています。

2時間に満たない映画なのですから、もう少し時間をかけて船内の様子や、パニックに陥る乗客や、悲嘆にくれる遺族の様子も描写できたはずなのですが、そうはしなかった。

ここから学べるのは視聴者を飽きさせないための工夫です。少しでも退屈されそうな場面はそぎ落とし、しかし視聴者がストーリーを追っていく上で最低限必要な情報は最短の時間で伝える。

 

「所々ダルかった」とか「途中で時計ばかり見ていた」などという感想が出ることは避けなければなりません。「退屈だった」という感想を持たれることを異常なほど恐れる製作者側は、退屈要素を洗い出し、潔癖症なほどに徹底的に排除してしまう。

視聴者がこの映画をビデオで観ていたなら早送りしてしまいそうな場面は、製作者側が親切にも初めから早送りした状態で完成させてくれたのです。

そしてそれは確かに成功していたのですが、その結果ストーリーの展開の仕方に強引さを感じてしまったことも否めません。また、あまりにも駆け足で物語が進んでいき、こちらが想像力を膨らませるようなゆとりや、車のハンドルでいうところの「あそび」がありませんでした。

 

観客を退屈させまいという過剰なサービス精神は、息もつかせぬほどに次から次へと感情を揺さぶるシーンを私たちに押し付けてきて、それは少し暴力的なほどです。

オラフという雪だるまが夏を想像して歌う場面など、ちょっと観客に一息つかせるような「ゆるい」場面も確かにあるのですが、それすらも計算されてそこに用意されたゆるさであり、視聴者はここでホッと一息つくことを強制されます。

ここでドキドキしろ、ここで怒れ、ここで感動して、ここで泣け、という風に視聴者の心理状態を恣意的にコントロールしよう、そしてそれは可能であると思い込んでいる製作者の、ちょっと意地悪な言い方をすれば傲慢さを、敏感な人は感じてしまうでしょう。

そしてそんな意図は理解していながらも、いともたやすくその通りの気分にさせられてしまう自分を「まぁいいか、そんな風に作られているんだから」と半分あきらめ気分で納得させようとするのですが、やはり屈服したような敗北感は拭いきれません。

 

退屈を乗り越えて視聴者が我慢強く映画を観続けてくれるだろうかという不安は、コンテンツの製作者には常にあるものだと思います。また、忍耐強く観てくれる視聴者だけに理解されればいいなどとも考えていないでしょう。

エンターテインメントなのですから素直に楽しめばよいのですが、楽しませようという下心が透けて見えるほどに不自然に作りこんでいると、かえって楽しめないという矛盾が起きてしまいます。

「愛してる」「愛してる」などと身分不相応なほどに言われると、かえって嘘っぽく感じてしまうようなものでしょうか?(注・言われたことはありませんが・・・)

 

古典文学などには非常に退屈な場面が多く、ドストエフスキーバルザックなどでも一見端折ってもさしつかえないようなこまごまとした描写が延々と続くところがあります。部屋の中の描写だとか、家具や衣装がどうだとか、そんなどうでもいいように思えることに何ページもさいています。

そんな場面を読者に苦労させて読ませようとする作者の意図はなんなのでしょうか? そもそも読者のことなど考えてなくて、自分の描写力や修辞の技巧などを開陳する場として捉えているだけなのでしょうか? 

 

クラシック音楽も私は好きなのですが、ベートーベンにしてもモーツァルトにしても、例えば長い交響曲の中などには退屈する部分がやはりあるのです(でもそんなところを耳を澄ませて一生懸命聴くのも好きなのですが)。

何か訳があってわざと退屈させる部分を作っているのでしょうか?

もしそうなのであれば、その理由を是非ともきかせてもらいたいものです。

 

結局は製作者が自分の美意識の表現のために作っているのか、作品の受け手のために作っているのかという違いでしょうか。

 

私もブログの記事を書いていて、私自身は書きたいことだけれども読んでくれる人が退屈しそうだと思う部分は悩んだ末に削除してしまうことが多々あります。

今後どんなふうに記事を書いていくかということについても考えさせられる映画でした。

 

でも私の場合は何も心配しなくても大丈夫ですね。読みたくなければ読者が一瞬でページを閉じてくれますので。ふふふ。

 

ということで、得意の(?)自虐でしめさせていただきます。ありがとうございました。